〈有〉の問題は〈存在〉以前の問題を構成している。
 つまり〈avoir〉は〈être〉よりも謎めいているのである。

 所有者(ayant/むしろ有者)の問題は、
 存在者(étant)の問題の前にある。
 人間は存在する以前に存在してしまっており(avoir été)、
 かつまた存在しなければならない(avoir à être)ものとしてある。

 〈ayant〉は〈ayant-été〉〈ayant-à-être〉として
 〈étant〉を挟み撃ちにしつつ、そのなかから生成させてしまう。
 つまり過去分詞(participe passé)と不定形(infinitif)から
 存在の現在分詞化=名詞化(実詞化 hypostase)が起こってしまうのだ。

 存在は過去への融即=分有/参加=加担(participation aux passé)を
 通して、過去から発し/過去の性質を帯びつつ(participation du passé)
 現在化しなければならない。

  *  *  *

 複合時制(temps composé)とは、
 要するに時の構成(com-position de temps)の問題なのだ。
 時を如何にして共に-置き、形成するか。

 存在が時間であるなら、ニーチェにいわれるまでもなく
 それは文法的な問題である。
 時間は文法的にのみ構成しうる。
 現在は複合過去形(passé composé)においてのみ
 完了形(accompli)となり、既成事実つまり
 成し遂げられたこと(fait accompli)となりうる。

 s'accomplirという再帰動詞は完全に実現するという意味をもつ。
 すなわち複合過去形(passé composé)は
 現在完了形(pr sent accompli)であり、
 現在の完全実現(accomplissement)すなわち、
 完全現実態=エンテレケイア(entelecheia)と考えられる。

 エンテレケイアとは可能性=デュナミス(潜勢態)から発して、
 また可能性に照らして現在の現実態=エネルゲイアを
 超越的に理解する思考である。

 恐らくエネルゲイアは時制的には
 未完=半過去(imparfait)的なものであるはずである。

 すなわち現在は一旦過去に遡及されつつ、
 そこから現在に回帰するというエンテレケイア的円環のなかで捉えられる。
 存在はハイデガーの言うとおり時間である。
 だとすれば存在者とは現在者である。それは現在時のことである。
 それは名詞である以前に動名詞であり現在分詞なのだ。

 だからこそ存在者の問題に先立って、
 贈り物=現在(présent)という与件=所与(donné)の問題が提起される。

  *  *  *

 しかし、この贈り物の贈り主(donnant)は
 存在者(étant)ではありえない。

 〈そこ〉にいるのは誰か。
 つまり現存在(そこ存在/Dasein/être-là)の
 誰性もしくは何性(quiddité)が問われることになる。