ドゥンス・スコトゥスの個体化論は、トマスのそれとは異なる。
 彼のいう個性化原理haecceitas(このこれ性)は形相である。
 これに対し、一般にトマスの個別化原理は質料に求められるとされている。

 トマスの『能力論』において
 第一実体(個物)の形相的部分(pars formalis)をなすのは
 種または類に一致する共通的本性(natura communis)
 つまり通性原理=何性(quidditas)という
 定義によって言表可能な普遍的なもの・
 第二実体という多数の個別者を通約している同一のもの、
 同一的かつ統一的な原理である。

 個別者における普遍的共通性の存在的優位性
 (本性上より先なるもの)がトマスにおいては保たれている。
 だから彼は言う。
 
 個別的実体において共通本性以外になおあるものは個別的質料である。
 これは、この質料が規定する個別的属性と相俟って、個別化原理をなす。

 無論、質料にも全く無規定な第一質料と、
 量的に規定された質料(materia quantitate signata)たる第二質料の
 区別はある。
 この場合個別化原理と看做されているのは第二質料の方である。

 質料のそれ自体としての現実性をトマスは認めていない。

 形相が質料を特定の存在に限定すると考えるトマスは、
 結局のところすでに幾らか形相によって形成されている
 第二質料をのみ現実的なものと看做している。

 とすればトマスの個別化原理は質料に求められる
 というのは幾らか微妙である。
 
 寧ろより原理的な原理として個別化を統括しているのは
 トマスにおいてすらむしろ形相である。
 しかしこの形相はやはり飽くまでも全体に対する部分、
 全体性の内なるSosein(かくある/相在=斯在)として
 規定されているに過ぎない。
 Dasein――これは一七世紀existentiaの訳語となった言葉である――
 つまり「そこにある」という定在=現存在は
 見いだされているとはいえない。

 この形相は個別的存在(実体)を
 真の意味で個体化する原理とはなりえない。
 つまりそれはどこまでもquidditasなのであって、
 種的区別(種差=異別性)しか与ええない。
 トマスは量的多数性と個別者の個別性を与える質料の裡に
 何ら積極的なものを看取ってはいない。

 ところでレヴィナスの個体化原理は
 質料的孤独に囚われる実詞=基体化である。

 文字通り、積極的な質料性が個体化原理となっているのは
 レヴィナスの方であってトマスではない。

 ただしレヴィナスにもトマス的なところがないわけではない。
 トマスは『哲学大全』において次のように言っている。

 神は存在であるが、被造物は存在を所有する
 (Deus est suum esse.....nulla creatura est suum esse sed habens esse)

 神においては存在と本質は一致しているが
 被造物においては分離している。

 アヴィケンナ的な存在と本質の区別は
 トマスをもレヴィナスをも貫いている。

 トマスにおいては被造物は現実性と可能性の混合物であるに対し、
 神は純粋現実態と考えられている。

 純粋現実態とは要するに
 究極の完全現実態(εντελεχεια)のことである。
 それは可能態の完成であるかぎり善(bonum)と看做されている。

 レヴィナスにとって存在は悪であるが、
 それが寧ろ質料であること、
 そして中世的に言い直せば
 寧ろ可能態にあたるものであることを見れば、
 構図にさしたる違いがあるとはいえないのである。

 もはや可能態ではないような
 純粋現実態(actus purus)であるような存在=神と、
 もはや存在ではないような
 存在の彼方の純粋形相(本質)であるような神=善と、
 これはいずれもプラトンの発想、
 この世を離れてイデアを目指す運動である。

 そして実際上、レヴィナスは
 〈顔〉として顕現する単独者
 (単独的に意味するものである絶対的他者)に
 〈純粋現実態(acte pur)〉という
 トマス的な表現を与えているのである。

 存在と本質の区別(分離)が
 被造物である実存の条件であることを
 レヴィナスは
 存在なき本質への倫理的志向性と
 捉え直していっているに過ぎないともいえる。

 「神は存在であるが、被造物は存在を所有する」
 というトマス的思想はレヴィナスにも意外に共通しているのである。

 非人称の中性的イリヤからの実詞化として辿られる
 レヴィナスの個体化論(創造論)において、
 完全な存在である存在者(トマスの神)は
 悪魔的に描かれているのであるに過ぎない。

 被造物である主体は
 イリヤのように単純に存在すること
 (存在することがその本質であるように存在すること)はできない。
 彼はただ存在するのではなく
 自らを重苦しい所有物として担わされながら
 ひたすら所有的に存在することになる。

 存在するというより存在させられる。
 存在しないことの不可能性とは
 いやでも存在させられてしまうという被造物的受動性を意味している。

 つまり主体は自己存在(per se esse)として実体なのであって、
 自己原因つまり原因なしに自立存在(a se esse)ではないからである。

 神的実体以外のあらゆる実体は
 創造されたものでしかありえない
 というトマス的実体観は
 レヴィナスのイポスターズ論にも
 そのまま当てはまってしまうものである。

 ヒルシュベルガーの指摘によれば、
 トマスにあっては実体の概念の意味するものは、
 実在の一つの様式である。

 「実体」という様式とある程度明白に区別されるのは
 「属性」の様式であり、
 常に他者においてある(ens in alio)という完全な非自立性をもつ。

 トマスにおいてもレヴィナスにおいても
 個体の個体化は何かしら共通本性的なもの、
 quidditas的なものを分有することによって起こる。
 というより個体は類的・種的なものに侵食される面をもっている。

 つまり非人称化が個体化に先立って起こってしまう。
 そのように読めなくはない。
 個体化が自己存在を自立存在として存在的に完成させることを
 目指すのだとすればという留保をつけるならばの話である。

 すると主体は出来損なってしまうのは目に見えている。

 レヴィナスにあっては
 それは質料的孤独という傷ついたモナドの生成となる。
 このモナドは自己完結しえない。ある種の欠如態なのである。

 他者の過越の痕跡つまり被造物性の徴を、
 遺棄の外傷を背負い込みつつ誕生する。
 これは自足した自己の構成の運命的な失敗である。

 わたしはこの運命的な失敗である自己実現=自己同一化の挫折を
 自己固有的自己の宿命的〈出来損ない性〉、
 すなわち〈自己出来損傷性〉と名付ける。

 自己は傷ついたものとして誕生する。
 自己は怪我をしている。
 これは存在論的怪我であり、
 個体の個体化が未完結たらしめられているということである。

 個体の個体化はそれ自身の成就から無限に遅延することになる。
 個体の未完性(半過去性)はその無限性なのであって有限性なのではない。

 有限化の不可能性としての無限性は
 主体を有限化とは違う仕方で曖昧に限界づけてしまう。

 怪我は曖昧なものである。
 曖昧なものである怪我から
 しかし自己とは違うものとして自我が誕生する。

 主体はわたしはわたしであることが出来ない出来損ないとして
 〈あること〉から切り離された自我(怪我)を所有することになる。

 自我は自己同一性の身代わりであるに過ぎない。
 それは怪我のうえの瘡痂なのである。
 自我は自己分裂を背後に覆いつつ、
 決してそれはありえないものとしてのみ生まれ出る。

 自我は決してなされなかった自己同一化が
 なされたかのように偽りつつ足元の危うさとしてしか出来しない。

 しかしそれはむしろ出来事の理解の失敗である。

 トマス的に読んでゆく限りレヴィナスのイポスターズは失敗としか見えない。
 quidditasからは個体の個体性は構築できないのである。
 つまりそれは個体化を説明できないし、
 個体に真に辿り着くこともできない。
 個体は悪無限的に分割=微分化され、
 構成の過程それ自体が個体の誕生を無限に背進させていってしまう。

 個体は漸消してゆく。
 どこまでいっても非人称性が続くのであり、
 主体は自分自身の自立性を人称性を捕まえ損なう。

 トマスの失敗は
 類的普遍(一般性)をどんなに特殊化し微分化していっても
 個体そのものの個体性には到達できず、
 単に個体の近似値としての最近種(species proxima)を
 そのいかがわしい身代わりとして
 欺瞞的に個体と看做すことしかできないという点にある。

 一般性から定義されるような特殊者は、
 個別者の最も近接した隣人かもしれないが
 その本人それ自体とは混同不可能である。
 逆に錯覚に因ってのみ
 個別者は特殊者と人違い的に同一化されるのである。

 ここに自己同一性の陥穽がある。
 つまりそれはラカンの言うような意味でのextaseの籠絡なのである。

 自己(soi)は自我(moi)の漸近線的近似値、
 近接未来または近接過去でしかありえない。

 無限分割のパラドックスの罠は
 〈平行性が交わらない〉という
 ユークリッド幾何学の第五公理よりも邪悪なものである。

 問題は交わってもいないものが交わっているかにみえる
 無限小のNull-Linie《零・線》、
 ニヒリズムの零の子午線を
 ルビコンのようには誰も渡れないということにある。

 自我と自己は起源が違うのである。
 その間の距離は埋まらないし、
 それは存在論的ブラックホールを形成してしまう。

 ヘーゲルやバタイユやハイデガーやブランショは
 それをそれぞれ違った角度から眺めたが
 名称においては共通してそれを〈死〉と、
 まさに一義的にそう呼んだのである。
 すなわち存在の一義性(ドゥンス・スコトゥス)ならぬ〈死〉の一義性である。

 ただ、このとき不可能な第三者、
 第三のわたしの可能性のごときものを触知することはできるだろう。

 トマスは、有名な馬鹿げた天使論のなかで
 「個別者があるのと同じ数の種がある」
 (quot sunt ibi individua, tot sunt ibi species)と主張し、
 ドゥンス・スコトゥスの批判を浴びることになった。

 ドゥンス・スコトゥスの有名な学説は
 (1)質料の現実的存在、
 (2)個別性の形相であるhaecceitasによる個体化論、
 (3)意志の優位、
 (4)存在の一義性
 である。

 ドゥンス・スコトゥスはトマスとは異なって
 質料に明晰な観念があることを認める。
 しかし、彼は質料による単に量的なだけの分割によって
 個体が個体化するとは認めない。
 haecceitasという個別性だけのための形相によって
 個別化が起こると彼は考えたのである。