【1】不可能性は必然性よりも必然的な必然性として、必然性に先行する。

【2】不可能性は〈ありえない〉こととして最初に生起する出来事である。

【3】不可能性の〈ありえない〉は思考にとっての最初の当惑と驚愕の衝撃を記述する。

【4】不可能性は何よりも思考不可能なものの〈ありえなさ〉として外的に実在する。

【5】不可能性は思考にとって最初に発見される思考自身の不可能性である。

【6】不可能性は自体的(καθ’ αυτο)に実在する反実在的なものである。

【7】不可能性は〈ありえない〉〈信じられない〉〈考えられない〉ことである。

【8】不可能性は〈考えられない〉が故に思考の不可能性を宣告する。

【9】不可能性は可能性に先行する。思考主体は可能性の中にしかありえないものとして自己を把握する。思考主体は〈可能性の内〉あるいは内‐可能性(in-possibility)というべき場処を不可能性の変容として作り出しながら、なお不可能なものであり続ける。

【10】不可能性は思考にとって〈有り得ない〉ものである。これに対し、可能性は〈有り得る〉ものである。思考は可能性の〈有り得る〉という出来事を通してのみ、自分自身の存在を獲得する。
 デカルト主義における《Cogito, ergo sum》がそのよい例である。
 およそ考える事が出来るためには、〈われ思う〉(cogito)という思考は〈われ在り〉(sum)という何か実体的に在るもので有り得ねばならない。〈ねばならない〉とは、さもなければ〈有り得ない〉、つまり不可能である、ということである。〈有り得る〉は、しかし直ちに可能性から存在を導き、思考にその存在を確実に与える。

【11】〈有り得る〉とは〈有る〉を〈得る〉ということである。この〈有る〉は、ただ〈在る〉ことではなくて、自己所有である。

【12】〈有り得る〉の自己所有は、知的に自己を所有するという仕方で在ることである。
 概念的にその存在の確実性を把握する事により、わが固有の取り分として、その存在を己れにもたらすということである。したがって、〈有り得る〉こととしての可能性は、このような存在獲得である。
 可能性のこのような存在獲得性を〈得有性〉と名づける。
 これに対照して、不可能性に〈不得有性〉の異名を与える。

【13】得有性は所有性に僅かに先立つ。

【14】可能性を通して、思考はその有るを得る。しかし、不可能性は思考にその有するところを与えない。

【15】思考にとって、「存在する/存在しない」の判定基準は、得有性としての思考可能性の側にある。それは事実性や現実性に基づかない。
 思考は、可能性からしか出発することができないという不可能性だからである。

【16】存在することは、存在する以前にまず可能でなければならない。存在は可能性から来るものである。現実や事実は、可能性の実現として、その結果としてしか有り得ない。ここに思考をアプリオリに規定し、むしろ根本的に呪縛している根本的な因果律(law of causality)がある。

【17】可能性は存在の直接的な原因である。

【18】存在が発見されてしまうや、存在は可能性のなかに一旦戻って、可能性の中から出来してくる。わたしたちは、このようにしか考えられない不可能性としてある。