Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-8 水上の夢の城

[承前]


 このときの帰省にはもうひとつの重要な意味があった。
 これを機にして娘ははっきりと意志表明して真壁家を出、黒崎の父の家に復帰する肚を決めていた。


 かつて母が亡くなったときにも、真壁家との間で娘を正式に父の籍に戻すかどうかを巡って話し合いがあったが、それはそのときには実現しなかった。
 母の遺言なるものを真壁家は盾に取って、父の申し出は退けられた。娘は一人で母の残した莫大な遺産を相続していたので、真壁家は後見人の座を譲りたくなかったのだ。
 その遺言では娘が自分の意志を主張できる大人になるまで真壁家を後見人とすることになっており、当時まだ幼かった娘は話し合いの席から外されていた。


 無論娘は成人と見なされるにはまだ足りなかったが、遺言状の文面を額面どおりに受け取るなら自分の意志をはっきりと宣言できるだけには成長していた。
 真壁家に対して自己主張し、娘が二十歳になるまでの財産の管理権は真壁家に委ねることを条件に、真壁籍から抜けることを承認させる話し合いに娘は出陣してきたのである。


 父に対しても条件があった。
 黒崎の籍に入る代わりに戸籍名も呼び名もどちらも『有理』には戻さない、娘の名前は『黒崎真理』、つまり死んだ姉と完全な同姓同名にすること、これであった。


 さて、母が亡くなった当時の話し合いの席での父の味方は麟太郎伯父だけだった。
 伯父は自分の妹が離婚してしまった後も父に財政的援助を惜しまず、父が成功し始めてからは、寧ろ益々巨額の金を渡して、美術品の蒐集に当たらせた。
 将来建設する予定の美術館に飾るための絵画の選別は殆ど父に一任され、そのための金には糸目はつけなかった。
 名望家のこの伯父の美術館建設事業は中央政界進出への布石を狙った欲得づくのものであったが、その事業の実現には、《龍》三部作によって突然画壇の第一人者となり、内外の美術界に顔が利くようになった父の名声を利用することが不可欠だった。
 麟太郎はまたずっと昔から父のパトロンでもあった。
 妹の結婚相手に父を祖父に推薦したのも彼だったのだ。


 この伯父についてついでに話すと、麟太郎は、権力欲と名誉欲の権化のような政治家である点で、わたしの母とよく似た性質の人だったが、母よりもまた真壁家の妖怪といわれた祖父よりも、わたしの父の才能にほんとうに信を置いていた。
 父の他にも多くの画家の卵や音楽家の卵を見つけては金に糸目をつけず出資していた。
 芸術作品が分かる人とはお世辞にも言えぬ俗物であったが、ふしぎと芸術家という人間には鼻の利く人で、作品には盲らでも人を見れば才能が本物かどうかを見抜く奇妙なインスピレーションに恵まれていた。


 この点において伯父は世間でもかなり有名な奇人であった。
 美術館だろうと演奏会だろうと、この人は必ず退屈そうにしていてすぐにウトウトと眠気を覚える。
 その癖、側に〈才気〉を発する人がいると感じると突然パッチリと目を開け、相手が貧乏学生だろうと乞食だろうと興奮して話しかけ、名刺を差し出してパトロンになってやろうと申し出る。
 しかも音楽会で画家の卵を、美術館でロックスターの卵を、絵筆を握ったこともない路上の浮浪者に未来の天才イラストレーターを発見するのだった。


 相手が自分の才能の真の分野を誤解している場合も多く、伯父はそんな場合には熱心に相手を説得して道を変えさせた。そして実際に彼らは伯父の言った通り見事に才能を開花させてしまったのだった。


 まだ早々と小さな兄に高価なストラディバリウスのヴァイオリンを買い与え、わたしに画集と水彩絵具のセットをプレゼントしてくれたのもこの伯父だった。
 姉の真理には携帯ビデオカメラと操作のやたら難しいプロ用の写真機材を買ってきて、母を非常に困惑させた。


 母は自分の兄に不平を鳴らした。こんなもの小さな子供にどうやって扱えというの? 


 だが伯父は大真面目に、そして興奮ぎみに予言してみせた。


 真理ちゃんは凄い才能を持っているんだ。わたしには分かっている。彼女は映像の分野でとにかく凄い成功者になる筈だ。大天才だ、いいかね、何十年に一回しか出ない大天才なんだよ。


 母は嘲った。カメラマンならともかく映画監督なんて無茶よ。この子は声が出ないんだから、どうやってメガホンを握れというの?


 伯父は憮然とした。


 声はいつかきっと必ず出るようになる。それにきっとすごくいい声をしている。
 なろうと思えば歌手にもなれる。大スターだ。彼女はきっと凄い美人になるし、センスもいいし、踊りだってうまいだろう。それから映画に出て大女優になり、最後には映画監督になって賞を総舐めにするのだ。音楽は稔君が作り、美術は有理ちゃんが作るんだ。素晴らしいじゃないか。


 伯父がまるで見て来たことのように大袈裟に語ったので、母はますます呆れかえったそうだ(この話は父から聞いたものだ)。そして実際にそう指摘した。
 すると伯父はますます憮然として言ってのけた。


 そうだよ、そうだとも。わたしは見たんだ。
 わたしは未来に上映される彼女の映画を予知夢に見た。
 全部は覚えていないが、タルコフスキーの映画によく似ていて、とにかくあっちこっちが水浸しになるんだが、とても綺麗な画面で、一度見たら忘れられない。


 題名は『オフィーリア』だった。話はどんなものだったか何分夢なもんだから場面がバラバラで完全には掴めなかったが、とにかく白い髪の少女が歌いながら水に沈んでゆく場面が圧巻で、それから後で死んだ筈のその少女が真っ青な神秘的な夜の場面でまた現れてくる。


 取り残されたその少女の恋人がどこか中世のヨーロッパみたいな幻想的な森と湖のあるところに庵を作って修道士みたいに暮らしている。そう、もうすっかり老人になっているんだ。


 そこへ死んだ筈の少女が蘇ってきて、それからふたりで夜の、うすぼんやりとした光をたたえた沼の上にボートを漕ぎ出していく。
 お堀なのかもしれん。霧の彼方に城の影が聳えていた。永遠なるものの城だよ。
 その白い髪をした不思議な少女は昔の恋人であった老修道士の魂を幽遠な冥府の古城へと連れて行く。あの世からお迎えにくるんだ。
 男は長い年月の孤独なそして清純な愛が報われて、その城の城主となり永遠に最愛の人と暮らす。


 いやあ、漕ぎ出してゆくボートが霧のなかにひっそりと消えてゆくラストシーンがこれまた圧巻だった。わたしは本当に感動したよ。目覚めた状態でこれまでに見たどんな映画よりもそれは凄かった。


 そこでキャプションが流れ出して、わたしはそれが真理ちゃんが監督した映画だと分かったんだ。
 稔君も有理ちゃんも協力していた。無論、音楽と美術でだ。
 ひょっとするとあの女優は真理ちゃん自身だったかもしれない……だとしたら本当に凄い話だ。
 彼女はそりゃあ綺麗で、まだまだ若かったんだ。
 どんなにメイキャップしてたって三十歳以下でなきゃあ無理だ。
 するとそんなに若くして大監督になってるということになる。


 凄い。わたしは夢の中で感激して拍手喝采していた……で、実際に拍手していてハッと目が覚めたんだが、物凄くリアルだった。
 まさに天啓、紛れもなく予知夢だ。
 わたしは泣いていたよ。素晴らしかった。
 あの映画を世界中の人に見てもらいたいと思った。
 こんなことは生まれてこの方一度もない体験だったよ。
 忘れられない。心が洗われるような深い深い場面だ。
 とても宗教的で……祈りがすみずみまで染み渡っていた。深いテーマが横たわっていた。
 話はとても素朴で慎ましいんだが……でも、奥が深い。


 あれは、全世界の死と再生をとても精神的に描いた作品だ。
 水に沈む少女は一つの宇宙を丸ごと象徴していて、彼女の死と共に全世界を滅ぼす不思議な洪水が始まる。すべてが水浸しになるのは、重い絶望が世界中にのしかかり、それがつまり世界を覆う不可思議な『死』を象徴的に表しているのだ。
 最後にひっそりと漕ぎ出してゆくボートはノアの方舟なんだ。
 神秘的な世界の甦りの希望が小さなボートには満載されている。
 つましい、ほんとうにつましいけれどその小さなおんぼろの寂しいボートに人類の神聖な希望が凝縮されている。
 古城は『月の城』という不思議な名前で呼ばれていて、孤独な修道士は運命の試練を強い忍耐で克服したので、神からそこの王になるべく選ばれたのだ。
 この修道士がノアになって、人類滅亡後の新しい時代が始まることが暗示されている。


 素晴らしい。夢に留めておくだなんて本当にもったいない。
 あの映画をどうしてももういちど現実にも見てみたい。
 でも真理ちゃんがきっとそれを作ってくれるんだ。そしてそれをみんなが見るのだ。いや、世界中の人がきっと見るし、それに、どうしても見なければいかんのだ。


 今のわたしたちは何かとても大切なことを忘れてしまっている。
 あの映画はそれを思い出させてくれる。簡単なものじゃない。とても言葉では言い表せない……とても深い深い何かを。神の確かな手触りなのかもしれん。わたしたちの手をそっと引いてくれる神の優しい手だよ。


  *  *  *


 それから淡々とした時間が始まった。
 父はずっと優しかったが、娘が二人の間に置くことを望んだ冷淡な距離を越えては決して踏み込んでこようとはしなかった。自分の手前で厳しく閉ざされたドアをノックしようとして、それでも途中で諦めて手を降ろし、力なく暗い廊下を帰ってゆく人のように。
 娘の葬式のとき、父の顔に、はじめて娘を《真理》と呼んだそのときと同じ表情が掠めているのをわたしは認めた。父は娘の死に余り衝撃を受けている様子はなかった。


 わたしは覚えている。その娘に、あなたは素晴らしい秘密を打ち明けた。
 その美しい水瓶の底にけぶる青冠湖〔ケペレシュ〕の無限の、清らかな水のおもてに、どうやってエロヒムの霊が舞い降りてきたのかを。あなたの最初の記憶だというその夢の話はきっと本当のことなのだ。