エマニュエル・レヴィナスの哲学にはストーリーがある。
 それはちょうどドストエフスキーの『罪と罰』の逆回転のフィルムを観せられているような奇妙な錯覚を覚えさせるものだ。

 非人称の存在〈ある〉=イリヤ(L'il-y-a)に始まり、〈汝殺すなかれ〉という他者の顔貌(visage)の発顕による殺人の瞬間凍結に終わるレヴィナスの物語では、他者の顔貌が真二つに割り裂かれる殺人事件は起こらない。
 しかし『罪と罰』はその殺人の瞬間の解凍に始まり、金貸老婆アリョーナとその妹リザヴェータが手斧で頭を割られて殺されてしまう。ところがまさにそのとき殺された女の貌が殺人者に憑依く。この憑依する貌に追われてラスコーリニコフのアイデンティティは内側から突き崩されてゆく。レヴィナスのいう他者の顔貌の思想の最も優れた表現がそこにある。

 それもそのはずで、他者の顔貌の着想は、ユダヤの神の顔や、アウシュヴィッツの死者たちの貌である以前にリザヴェータとソーニャの貌に源泉があることはレヴィナスがいちいち注記しなくとも読めば濃厚に明らかなのだ。
 それこそ他者の顔貌の原体験にしてその思想の核心である。
 アウシュヴィッツその他で非業の死を遂げたユダヤ人同胞の幾多の顔はその顔の観念のリアルでアクチュアルな外延を与え、ユダヤ思想はそれに形而上学的で抽象的な展開を可能にする哲学的な意味付けを与えたが、その原型をレヴィナスの心に焼付けたものは紛れもなくドストエフスキーの読書体験に他ならない。

 レヴィナスは大のドストエフスキー愛読者で知られる思想家であって、哲学者に志す以前のリトアニアの少年時代からドストエフスキーの作品に親しんでいた人である。それどころかドストエフスキーこそ彼を哲学研究に向かわせた最大の誘因に他ならなかったということを或る対話の席で回想している。フッサールよりもハイデガーよりもまたユダヤ思想を彼に仕込んだ謎の人物シュシャーニよりもドストエフスキーこそがレヴィナスに圧倒的影響を与えた最大の思想上の師であったことは当然にして明白である。

 彼は『時間と他者』のなかで「私には時として、哲学のすべてがシェイクスピアを考察することに過ぎない、と思われることがよくある」(邦訳書六一頁)と語ったが、このわたしにはレヴィナスの哲学のすべてがドストエフスキーを展開することにあったのではないかと思われることがよくある。
 彼は特にドストエフスキー論なる書物を書き残した訳ではないが、実は彼の著作活動の殆どがドストエフスキー論よりも濃密な哲学的ドストエフスキー論、ドストエフスキー哲学だったのである。彼は好んでゾシマ長老の夭折した兄マルケルの言葉を引用する。

 「僕たち人間は誰でもすべての人に対して、すべてのことに対して罪があるんです。なかでも一番罪深いのはこの僕です」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』小沼文彦訳)。

 それをレヴィナスは『カラマーゾフの兄弟』の核心部分であるというが、寧ろレヴィナスの思想の最重要の核心――但しその核心が「核崩壊」ないし「核分裂」によって自壊してしまうような核心である――つまり所謂「メシア的実存」精神の精髄を言い表している。

 但し、これと同様の言葉はミーチャ・カラマーゾフの口からも生々しく吐かれているが、レヴィナスは何故かマルケルという小さな男の子の口からその言葉を取ることは注記しておく必要がある(『存在するのとは別の仕方で』邦訳書二六五頁『暴力と聖性』邦訳書一三六頁)。

 同じ言葉であってもそれが誰の口からどのような場面で語られるかによって負わされている意味は時として天と地ほど違う。

 このマルケルは無垢な絵に描いたような良い子であるが病弱で哀れにも早死にする。
 上に引用した台詞はマルケルが自分の母親に対して諭すように言っている科白である。

 言葉は確かに美しいし感動的だ。
 しかし、その箇所を読むときに、わたしはマルケルが余りに可憫そうで胸が潰れそうになる。そこが『カラマーゾフの兄弟』の核心部分だというなら、それは最もみにくいひどい核心部だ。

 その箇所はゾシマ長老の伝記の冒頭に当たり、アリョーシャが書き纏めたものである。
 ところが小説の叙述の順序に従っていうと、読者は既にアリョーシャと共にイワン・カラマーゾフの力強い演説「大審問官」を聞かされている。
 つまり『カラマーゾフの兄弟』の最も有名な山場である。

 だが、「大審問官」がこの作品の核心なのではない。
 真に核心的なのはその前置きとしてイワンが語る様々な幼児虐待と罪もない子供の苦しみの話である。

 罪もなく子供が苦しむ。
 それこそがこの父親殺しの物語の真の主題である。
 それこそが、カラマーゾフの三兄弟の共有する胸の痛みであり心の叫びなのだ。
 否、それ以上にそれはドストエフスキー自身の魂の慟哭である。その文学の真実である。

 そのことを思うと、レヴィナスのこの美しい言葉の引用行為に、単純に感動してばかりはいられない、陰鬱な懐疑と嫌疑の念を心が抱いてしまうのを、わたしは自分に禁じることができなくなってしまうのだ。