〈別人〉は〈自己〉でもなければ〈他者〉でもない。
 〈自己〉と〈他者〉は〈別人〉である。
 〈別人〉は〈自己〉と〈他者〉の間に立つ得体の知れない不可能な第三者である。
  *  *  *
 思考法則を律する三つの論理律、自同律・矛盾律・排中律は、それぞれ自己・他者・別人の存在様相を定義している。

 自己自同者他者矛盾者別人排中者と呼び替えることができるものである。
 ところで、三つの論理律のなかで何者かの存在否定を行っているのは排中律だけである。
 自同律は否定を全く行わない。
 矛盾律否定の様相において他者を記述しているが、他者という存在者の存在を否定しているのではない。
 「非AはAではない」ということは、Aとの同一性を否定しているだけであって「非Aは存在しない」といっているのではない。
 むしろ「非Aは存在する」のである。
 しかし、排中律にあっては「非AでありAである者」の存在が積極的に否定されている。
 Aを自己、非Aを他者とすれば、自同律は自己の存在について、矛盾律は他者の存在について語っているといえる。

 排中律は自己であり他者であるような別人という存在者の存在を否定(むしろ禁止)している
 別人の存在否定は自己と他者の混同の禁止であり、自他の分別の論理的確定であるといえる。

 排中律は別人を存在否定の生贄に捧げ、無の火炎のなかに葬り去ることによって、自己・他者・非他者・非自己という四つの様相的存在者の存在可能性を救済している。
 自己は自己に他ならざる者として他者一般から区別され、非自己ならざる者として自己に回帰することができる。
 他者は他者に他ならざる者として他者一般から区別され、自己ならざる者として非他者一般からも区別され、自己ではないが他の自己を持つ者、存在する非自己の非他者として現実存在することが可能となる。
 別人は自己にして他者、非他者にして非自己であるような非存在、非自己に他ならざる者はありえないという意味で不可能性の様相においてのみ把握される恐怖の観念の必然的核心である。
 自己と他者の二項対立に存在と非存在の二項対立が直行的に横断する。
 自己と他者の対立関係は、その真中が別の対立軸によって横切られなければ、両立可能な二項の関係とはならない。
 別人は自己と他者の間に鋏を入れるようにして差異を切り離して画定しつつ、自らは非存在となって、存在する存在者である自己と他者の両者に対立する。
 自同律は或る存在者Aにおいて「Aが存在する」ということであると読み替えることもできる。
 つまりそれは「Aの存在」の定立である。
 これに二つのタイプの反定立(否定)が考えられる。
 「Aの非存在」「非Aの存在」である。

 前者は存在の様相に否定が働き、後者は存在者の様相に否定が働いている。

 それ故に意味は違うが、「Aの存在」を虚偽化して脅かしている否定(反対)である点においては同じである。
 前者の場合、AがAであること(同一性)は破壊されていないが、その同一的存在者Aの存在が否定され空洞化されている。Aを脅かすのは自己の非存在である。或いはAの死であるといってよい。
 後者の場合、何かが存在することは否定されていないが、それがAであることが否定されている。Aを脅かすのは他者ないし別人の存在である。或いはAの発狂であるといってもいい。
 前者においてはAの現存在「Aがあること」がAの非存在「Aがないこと」によって無化されAは存在を喪失している。
 後者においてはAの現本質「Aであること」がAの非本質的現存在「Aでないこと」によって覆されAは同一性を喪失している。
 同一者の存在の危機と存在者の同一性の危機は、存在論的差異における存在者と存在の調和的差異が相克的で否定的な様相に転化したしたとき、自同律の真理性を揺るがす精神病理として共に起こり得るものである。
 存在と存在者の対立が存在優位であるときに、存在は存在者を押し潰しその自己同一性(本質)を破壊する。存在は無化されないが存在者は無化されてしまう。存在が存在者を侵略する。
 逆に存在者優位であるときに、存在者は存在を追放しその自己同一性に自閉的に引きこもる。
 存在者は自己を無化しないが存在を無化する。
 それは無の分厚い壁の砦に孤独に引きこもって存在を遮断し、無を存在に代わる自己の存在条件として選び取るということだ。
 それは無によって武装すること、無という違う仕方で存在することを選択するということである。
 しかし、それは無によって窒息することでもある。
 この場合の無はいわば人工の存在であるといっていいものである。
 存在の放射能から身を守るためのシェルターであるといってもいい。
 シェルターから出れば存在者は忽ちに放射能汚染で破滅する。
 しかしシェルターのなかにいたとしても、そこは空気の足りない閉塞空間であるので緩慢な窒息死を免れることはできない。

 この無のシェルター自我の殻であるといってもよいものである。
 しかし、それは非常に抽象的で無機的な自我の甲殻である。
 正常な自我は存在者の内にあって、それを内から支える核心でありまた内骨格をなすものである。
 この異常事態では存在者は脊椎動物であるのをやめ甲殻動物に変身してしまっている。
 グレゴール・ザムザのように巨大な昆虫に変化してしまったのだといってもよいだろう。
 昆虫的なもの、無脊椎で複眼で固い殻を被ったもの、角質化した虚無の鎧によって全身を覆ってしまったもの、それを存在論的甲虫と名付けるとする。
 存在論的甲虫存在論的畸型の一様態である。
 わたしがここにいう存在論的甲虫のことをレヴィナスは物質的孤独ないし質料的孤独という語で定めている。それは存在の侵略に対するアレルギー反応であると見てもよい。存在が存在者の自己同一性を破壊的に侵犯してくる異常事態のことをレヴィナスはイリヤと呼んでいる。
 イリヤの概念は問題提起であると同時にそれ自体において多くの問題点を孕んでいるという両義的な意味において二重に問題の多いものである。

 それは見かけほど単純ではない、なかなかに一筋縄ではゆかぬ手ごわさをもっている。
 それはレヴィナスの思想の最重要の核心部分をなすものだが、わたしの見るところイリヤという概念装置の概念構成にはレヴィナスが敢えて明示的には語らなかった思想戦略的な仕掛けが巧みなトラップのように組合わされて極めて複雑な内部機構を作り出している。
 言うまでもなくこのイリヤというトラップはハイデガーのそれ自体が超越論的な形而上学批判であるところの存在論を批判されるべき悪しき形而上学としておびき寄せ逮捕し告発するための巧妙な超越論的形而上学の罠である。
 レヴィナスは決して素朴に(或いは誠実に)イリヤについて語っているのではないので、彼の言うことをすっかり額面どおりに受け取る訳にはいかない。
  *  *  *
 〈別人〉は〈他者〉ではない。

 それは純粋な様相または幻想としてしかありえない決して存在しないものである。
 それは〈他者〉よりも難解で厄介な相手であり、〈他者〉の他性そのものを凶変的に崩壊させてしまう危険で邪悪な脱け出すことの難しいアポリアを差し出してくる。
 だからこそ〈他者〉よりもその同名異人=同名異義語〔homonym〕である〈別人〉こそが〈他者〉を問う上でより重大で深刻な核心的な問題なのだ。
 〈他者〉は善と倫理と神の問いの地平を開く。

 しかし〈別人〉は美と様相と病理と受難の異次元の裂け目を〈他者〉の顔貌それ自体を破綻させる異貌として殺人的に突出させてくる悪魔的な出来事である。

 〈別人〉は悪魔学的で黙示録的な形而上学的非存在であるとしかいいようのないものだ。
 それは決して現実には存在し得ないし可能的にすらあり得ないものであるのに不可避的に襲い掛かってくる超現実的な危難を言い表している。
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 〈別人〉を見ることは死ぬよりも恐ろしく辛いこと、それについてはもはや絶望すらもありえない最悪の厳しい局面である。

 〈別人〉のもたらす死は死よりも苦い真の意味での死である。
 〈別人〉は命こそ奪わないが最も悪い仕方で人を殺す。
 それはメドゥーサを見ることに等しい。
 血は凍り体は蒼白く石化して魂が滅ぼされる。
 〈別人〉は耐え難いまでにみにくい。
 しかし、それは醜悪であるからではなくて荘厳なまでに美しく眩すぎるためだと考えるべきであるかもしれない。
 みにくいとは形態的に不快を催す視覚像(対象)の不細工さにあるというより、その対象の〈見難さ〉であり対象それ自体の不可視性、カントの言うような意味での物自体の主体的認識或いは表象の不可能性に接しているとは考えられないだろうか。
 例えばこのように推理してみるとすればどうだろうか。

 メドゥーサのおぞましさはグロテスクで滑稽なモンスターであることにあるのではない。
 一目見ただけで心臓が止まってしまう程に魅力的で比類のない絶世の美女であるからこそ恐ろしいのである。
 それをちらりと見ただけで魂を奪われてしまう。
 身も心もその麗しく鮮烈な美の閃光に奪い尽くされてもう目が離せなくなってしまう。
 だから命懸けでそれから顔を背けねばならないのである。
 顔を背けて決してそれを見ないようにしなければならないのである。
 さもなければ魂の抜け殻に変えられてしまうのである。
 身を滅ぼす愛の虜となり心を焼き尽くす恋慕の炎の薪となってしまうのである。
 メドゥーサはその度外れの美と貴品によって一瞬に魂を呪縛し、餌食となった者の心を生きたままその珊瑚の唇と真珠の歯で食べてしまうからこそ魔女なのである。
 それがメドゥーサの恐ろしさとみにくさの真相なのだ。
 みにくいものとは醜悪なものというよりは神聖不可侵の美の極致であってそれを見るものの理性を二度と元には戻れないまでに狂わせてしまい、それの内へと吸着し吸い取ってしまうからこそみにくいのである。