不可能化。事物の外観はそのままなのにその内側が一瞬に白骨化して崩れ落ちる。
 「在る」ことの全体がそっくりそのまま「化けて出る」にすげ変わるようなこの過剰に現実的で陰惨な幻想感は極めて耐え難いものなのだ。

 現実、余りにも無残な、剥出しの現実でしかありえない現実がわたしを打ちのめす。
 現実をすら幻視できないというときに人は非現実や超現実や空想や架空や虚構や夢を見るのではない。現実の非現実性を見るのである。
 現実が非現実であるということの耐え難い現実性を見るのである。
 夢が現実であるのを見るのではない。
 現実が夢であることを幻滅的に知って、それから目覚められぬ己れに目覚めるのである。

 夢を見るねむりびととして夢を見るのではない。夢は見えない。
 夢を見るねむりびとである自分を見てしまうのである。

 それは普通の意味での覚醒ではない。
 ねむりびとである自分は決して目覚めることはないのだ。
 決して目覚めることのできないねむりびとは夢を分泌することしかできない。

 そのまさに夢を見ているねむりびとである自分を見てしまうことは最も悪いこと、悪夢よりも悪い真のそして最悪の悪夢を、最大の幻滅を見ることだ。
 それは呪われてしまうということに他ならない。

 眠って夢を見ている自分を夢に見ることは、夢の中に恐ろしい化物を見てそれに食われることより遥かに恐ろしいことである。
 それはその夢が死の前兆をなす不吉な予知夢であるから恐ろしいのではない。
 ありえない夢だから恐ろしいのである。
 自分に自分が化けて出ることだから恐ろしいのである。
 自分に自分が憑依くものであるから恐ろしいのである。

 他人の夢に生霊となって自分が出ること、つまり他人に自分が憑依することは、まさにそれこそが夢と言われるにふさわしい夢である。
 人間の最大に焦がれる夢は古来から他人の夢になることである。
 人間は他者に夢見られることを夢見る。
 しかしこの夢とか夢見るとかいうときの夢は目覚めて見る夢であるところの願望を意味するに過ぎない。他者に夢見られるという夢は目覚めているからこそ夢見ることのできる夢であって、その夢は夢を夢見ているのに過ぎない。

 よく現実は厳しいといい、夢見るような甘いことを言うなとそれこそ甘ったれた説教を垂れる威張腐った人間がいる。この知性を欠いた浅薄な人種の、単に横柄に威張り腐って自分だけがお目出度い夢を見ようとする、つまらないリアリズムほど現実逃避的な卑劣はありえない。

  *  *  *

 わたしの手前でふいに蒼白い掻消す光に執り憑かれ、異妖なものに連れ戻されつつあったその女、消滅の間際に陽炎のようにゆらめくまぼろしめいた姿でわたしへと振り返った彼女のふるえる指先がわたしへと、しかし微妙にわたしからズレたひっそりとした黒い空虚へと指し延ばされるとき、その不可思議な定めなき場処に彼女は何を見定めつつあったのか、或いは見定めてしまったのか。

 彼女の指先の曖昧な指示は指さしえぬものを指さそうとしていたのではないか。
 ではそこに何がいたというのか。わたしでないとすれば誰が? 

 そこにいたのはわたしだ。わたし以外に何か他の者がいたわけではない。
 その他には誰もいない。いるとすればそれは全く物の数にも入らないもの、無-虚無であり、ノーボディとしかいえない、全くいない人、決して居合わせぬ者だ。

 別人とは黙した恐怖である。

 黙した恐怖の叫びが世界を引裂き、自己と他者を引裂き、ことばを引裂くとき、その全く異なる者、その全く有り得ない者、しかしにも拘わらず万物を異化する有無をいわさぬ圧迫的な魔力にも似た万能の権力を行使する者が顕現する。

 恐怖の権力。或いは恐怖の大王とそれを呼ぶべきであろう。

 別人とは最も畏れ多くして最もおぞましきもの、限りなくみにくいもの、世界の終末ないし極限にあるもの、或いは世界の終末そのものであり、まぎれもなく黙示録的なものそのものであるからだ。

 別人とはアポカリプスであり、封印され呪われた神聖不可侵にして邪悪不可触の禁断の他者性――むしろ、超他者性である。
 それは根源悪、《悪は何処から(ウンデ・マルム)》の問いに答えるものである。

 悪は別人から来る。別人とは存在の鬼門である。