埴谷雄高は『死霊』において〈虚体〉という
 不可能観念を表現しようとしていた。
 その観念自体は実は少しも難しいものではなくて、
 寧ろ明瞭で間違えようもないものである。
 それは端的にいうなら〈美〉のことである。
 〈美〉は存在からは決して到来することがないが、
 それは否定的な〈無〉であることもありえない。

 しかし、その〈虚体〉のことは
 今は取り敢えず措いておくことにしよう。

 その前にむしろ問題であるのは〈実体〉の方である。

 非常に気になるのだが、
 『死霊』のなかでは〈実体〉の観念は
 自同律A=Aの明証性と全く同義のものとして語られている。

 これは特に第一章「癲狂院にて」における
 主人公・三輪与志の問答の対立者、精神病医の岸博士の発言や、
 第三章「屋根裏部屋」における三輪与志の旧友・黒川建吉の立場から、
 与志の異母兄・首猛夫に対してなされる、
 与志の胸裡に秘められた思念〈虚体〉についての解説のなかに
 はっきりと表現されているものである。

 第一章では「自己が自己の幅の上に重なっている
 (自同律A=Aの表現)以外に、人間の在り方はないのです」
 という岸博士に対して、与志は「それは、不快です」と答えて、
 所謂〈自同律の不快〉の立場を表明する。

 その言葉を聞いて、
 岸博士は与志が数年前に雑誌に掲載された『自同律の考究』という
 奇妙な論文の作者であったということに気づく。
 そしてその論文の観念は全体的に誤りであり、
 「一つの基本的観念からそれて行った一つの異常な結実だ」
 との見解を述べる。
 更に問答が続き、三輪与志は、
 人間が人間である自己証明のために、
 矛盾自体である虚体を創造しなければならないと言ってのける。

 虚体が矛盾自体であるというのは
 自同律の明証性から直接的に出てくるのではないような
 自己の観念でそれがあるということだろう。

 彼はその虚体のことを
 「嘗てなかったもの、また決してあり得ぬもの」
 なのだとはっきり述べている。
 すなわち虚体というのは決して有り得ないもの
 すなわち、不可能性の様相においてあるものである。

 第三章では黒川建吉が彼自身の思想的立場に引き寄せた形で、
 〈実体〉と与志の〈虚体〉の観念を対照している。

 ここで注意しなければいけないのは、
 黒川が必ずしも与志の完全な理解者であるとは限らず、
 ことによったら何か途方もなく
 それを誤解している可能性があるということである。

 黒川はそもそも〈意識の難破〉という
 想念の全く停止してしまった非人称的意識への融即
 という精神症状があるが、
 三輪与志の〈自同律の不快〉を共有してはいない人物
 として設定されている。

 黒川のこの症状は
 具体的な自己に対する意識の漠然とした違和感のようなもので、
 むしろありふれている。
 一般に離人体験(=非人称化)といわれているもので、
 青年期には健常者にもよくあるものだ。

 何となくぼんやりして眼前のものが実体感を失い、
 意味の剥落した無機的なしんとした世界が
 ただ広がっているような状態にスーッと取り込まれてしまう。

 高校時代の黒川は深夜の読書中に、
 或る章句につまずいて、そこではたと想念が停止し、
 周囲の物体と同一化したような表情を現して、
 石化したような瞑想状態に陥ったと書かれているが、
 これは全く離人症的な非現実感や
 自明性の喪失状態における症状にそっくりである。

 私は精神科医ではないが
 実は離人症を長患いして
 非常に苦しい青年時代を送ったことがあるので
 体験的にこれがどういうものであるのか
 身にしみてよく知っているし、
 すっかり治った今となっては、
 それがどういう問題であるのか分かっている。

 その上で言うのだが、
 そのような非人称的意識に融即するような感性の持ち主が、
 その存在論的問題の親近性から
 三輪与志のような青年に魅かれるのは当然だが、
 それは同時に必然的に
 三輪与志の思想を悲劇的なまでに誤読する結果に
 陥らざるを得ない筈である。

 黒川の〈意識の難破〉というのは
 哲学的にいうなら現象学的還元(エポケー)の類い、
 それも恐らく超越論的還元というもので、
 それによって非人称的な超越論的自己に没入してしまう
 という脱我=恍惚(extase)の状態であるに過ぎない。

 これは『死霊』のまさに書き始められた時代(1946~1949)には
 むしろ有り触れた思想である。

 黒川はまさにその時代の流行の最先端を行く思想青年であって、
 換言すれば流行病であるに他ならない
 実存主義的ニヒリズムの時代精神に
 敏感に反応=感染した痛ましい人物なのである。

 三輪与志の〈自同律の不快〉という思想は
 むしろそれとは時代=問題設定(エポケー)を異にするものである。

 意識とか現象とか歴史とかいう
 ヘーゲル以降の哲学の問題系を抱え込むことが
 二〇世紀の人間なのだとするなら、
 彼は全くその同時代を共有していない。

 彼がマルクス主義の社会運動に全く関与することなく、
 一人淡々と個人的問題のために
 『自同律の考究』などという
 世間の誰からも注目もされなければ
 理解もされはしない形而上学的論文を
 ぽつんと雑誌に発表するだけであった
 という孤絶したその風流な姿勢は、
 屋根裏部屋の住人ではあっても
 社会運動家たちにアジトを提供するなどしている
 黒川建吉に対してすら一線を画するものだ。

 与志には理性や実体や宇宙といった
 カント的な古き良き形而上学の用語はあっても、
 意識・現象・歴史などという騒がしい問題意識は
 殆ど全く共有されていない。

 対立者・岸博士にしても、
 解説者・黒川にしても、
 与志の〈虚体〉論を「虚無主義の超克」の問題なのだ
 と性急に大袈裟に意味付けてしまう。
 それは確かに興奮するべき人類史的問題であるかもしれないが、
 与志は単にそれを人間が人間であることの自己証明、
 つまり自分が一個の人間なのだということを証明したいという
 小さいけれども切実な問題として考えているだけなのだ。

 『死霊』を読み間違えてはいけないのだが、
 この小説はまず何よりも一篇の実に切ない、
 そして真実の愛を求めてやまぬ美しい恋愛小説なのであって、
 三輪与志の最大の問題は
 どうしたら運命の恋人の津田安寿子と
 本当に一緒になれるのだろうかということの方なのである。

 三輪与志が安寿子をとても強く愛していることは疑いようもない。
 彼の求めている〈虚体〉の観念は
 或る意味において紛れもなく女のことなのであり、
 それは誰あろう津田安寿子のことを恐らく指して言っているのである。