パルメニデスの命題「同一であることが思考にして存在である」
〈το γαρ αυτο νοειν τε και ειναι〉を
ハイデガーは単に論理的思考の根本原則として
矛盾律・排中律に並列される自同律という以上に、
ということはそれとはまた別のものと看做しながらということだが、
西欧哲学の基礎にして主導命題として尊重している。

彼はそれを『存在と時間』における
Selbigheit(自同性)およびZusammengehörigkeit(相依相属性)
に結び付けている。

自同律は寧ろ思考と存在の同一性(一致)のことであり、
その意味においてそれは寧ろ真理律といったほうがいい
或る種の形而上学的主張(思想)である。
それは寧ろ真理というものに定義を与えている。
真理についての同一主義的なイデオロギーといってもよいものである。

無論この真理はアレーティア(脱=隠蔽性)の両義性と
それ自身の有限性を隠してしまう(存在忘却)。

ハイデガーはそれを寧ろ
〈同一〉という出来事(Ereignis/自性性起)が起こるという
足元を見透かしたようなアイロニカルな見方で見ている。

ハイデガーはパルメニデス的自同律を
自明視もしていなければ必然視もしていない、
それを尊重するとはいっても崇拝しているのではない。
このことは微妙だが重要な点である。

彼は自同律の誕生をギリシャ的な感性に規定されたものとして
寧ろ歴史的に見ている。
それを永遠不滅の宇宙の法則や
それ以外にはありえないような唯一の思考型式であるなどとは思っていない。

ハイデガーの真理論や同一性論はむしろそれへの超越論的な批判を含んでいる。
彼はむしろ真理や同一性や自同律や自明性・明証性のいかがわしさや
愚かしさについてこそ意味深いことを語っているのであって、
寧ろわれわれが如何にその意味不明の存在忘却に過ぎぬ愚かしい了解
(了解とは愚かであるということである)
のなかで目が眩んで真相がみえなくなっている
下等な猿でしかないかについて示唆しているのである。

形而上学の根底への戻行き(遡行)は、
だからこそ形而上学とは別の思惟であるといえるのである。

彼は存在(ον)を自明の前提として
そこから出発して問題解決してゆこうとする類いの存在の狂信者ではない。

わたしがこのようなハイデガー像に描こうとしているのは
デカルトよりも徹底したデカルト的懐疑の精神である。

彼は〈われ思う故にわれ在り〉そのものをもなお疑う余地の在るもの、
こういってよければ、それを疑う思考の方法があるのではないのかと
その疑いの方法を作り出しつつあるところの懐疑である。

それは、〈われ思う故にわれ在り〉の精神の単なる否定ではない。
古くはバークレーやヒュームのような懐疑論者、
近くはレヴィ=ストロースのような構造主義者がそのような
単なる否定者だった。
そうではなくて、むしろそのデカルト的精神の更なる深化徹底なのだ。

デカルト的精神が、
疑うという行為の徹底的遂行のなかにしかありえないのだとすれば、
〈われ思う故にわれ在り〉であるような思考はついに
〈われ思う故にわれ在り〉をすら何とかして疑おうとするものに
転化しなければならない。
方法的懐疑なのではなくて
懐疑のための方法を作り出しつつ叙述することである。

それはコギトの自己否定ではないし普通の意味での懐疑ではない。
違う仕方で懐疑することを通して
その疑いの意味を明らかにしてゆこうという努力である。

ハイデガーは〈われ思う〉も〈われ在り〉も
そうではないかもしれないというように疑っているのではないが、
それにしてもそれだけはどうあっても
疑うことはできないというような明証性こそが
寧ろ一番疑わしいのだということを感じているのである。

コギトが全てを徹底的に根底から考えぬこうという
思考の決意であり、戒律であり、そして、
それこそが真の哲学的精神なのだとすれば、
明証性を疑い、思考を疑い、存在を疑い、真理を疑い、自同律を疑い、
根拠を疑うことも何とかしてできるようにならねばならない。

さもなければ実は逆にコギトそのものに意味がなくなってしまうのである。

ハイデガーの素晴らしさは(ニーチェもそうだったが)
真理や理性や哲学を疑うこともできるし
それこそが意味深いことなのだということを
わたしたちに教えてくれた点にある。

常に懐疑というものは新たに創造されなければならない。
懐疑することこそ人間の創造性なのである。

哲学という仕事は、人間が人間であるための根本条件であるが、
それがまさしく疑うということにあるということ、
違うものの見方を懐疑によって絶えず創造し続けることによって、
自分が住んでいる世界を絶えず見直してゆくことにあるということ、
常に定見に逆らいつつ逆の方向から思考を生起させ、
常に己れの思考様式を転倒させつつ思考すること、
それこそが理性的動物である人間の唯一の根本的な自己証明であり、
その精神の尊厳なのである。

このガリレオ的コペルニクス的、そして、デカルト的パスカル的で
なによりもカント的であるような精神、
転倒的=革命的=批判的精神は何よりも懐疑の精神であり、
それが一番偉大な精神なのである。

ハイデガーはその点で誰よりも哲学者らしい哲学者だった。
多くの問題はあるとしても、
それでも彼は哲学そのものを疑うことこそが第一哲学なのだということを
最も精力的に最も判切〔くっきり〕とした線の太い仕方で
わたしたちに示した偉大な先駆者なのである。

レヴィナスやデリダやドゥルーズは
それぞれハイデガーを批判しながら
それでもハイデガーが教えた一番重要なことを忠実に守っている。

破壊的に思考せよということ。

懐疑を創造し、先駆者や権威の言ったことに追随するのではなくて、
寧ろ常に疑う主体として、根底的に疑い、根源を越えて疑えということ、
常に異論の余地を開発し、己れが自明としてしまっている原理、
それによって考えさせられてしまっている原理と
たたかうように思考せよということ、
彼らはハイデガーの背中からそれを学んだ。

そしてそれを学んだ以上、
この偉大な背中に対する背教を企てねばならなくなっただけの話である。

ハイデガーの師フッサールもまた、
伝統的な哲学に対する根底的なデカルト的懐疑家であり背教者だった。

背教者はその師の背中から
〈わたしに背教せよ。わたしに追随するな。
 寧ろわたしから学んだ背教の精神と知恵に忠実に生きよ。
 そしておまえも背教されるような良い哲学者であれ〉
という掟を学ぶのである。

哲学とはまず疑うことを学ぶことに始まる。
そして常に違う仕方で疑おうとすることのなかにある。
それこそが真の形而上学なのである。

自分の論敵を愛さない哲学者があるだろうか。
また尊敬した父なる哲人や師と仰ぐ賢者に
乖かずにいられる思想家というものがありえるであろうか。

疑うということの素晴らしさを教えてくれた大恩に報いる
最大の感謝の表現とは
その師を疑いその師を批判することである。
そのことを通して師の真の教えは学ばれそして生きるのである。

ハイデガーにとってパルメニデスはそのような師である。
師は神であってはならない。むしろ人として見いだされねばならない。

ハイデガーがパルメニデスを尊重することのうちには対決がある。
彼はパルメニデスの命題における思考と存在の同一性を
寧ろ一回的な出来事としてみようとするとき、
真理の光が実は欺きであることを見ようとしている。

ハイデガーは存在のまたは存在論の哲学者といわれる。
しかし実は存在と存在論への最大の懐疑家なのだ。

彼はパルメニデスのいうような
形而上学的・イデア的・超世界的実体としての〈存在〉などを
まともに信じているのではなくて、
寧ろいかにしてそのような錯視が
拒みがたく起こってしまうのかを寧ろ自然史的にみようとしている。

実際にはハイデガーの立場は寧ろ仏教形而上学の方に近いのである。