伯父は長年をかけて
調べているかもしれない話だろうけど
私が写真に撮ってきた
資料?
AIに読んで
これでとりあえず、
書いてあることがわかる
そして
これの意図は?と
尋ねると不明な点を踏まえて
教えてくれる
その上で
私の知っている事実を書き上げて
年代等で矛盾あるかを尋ねる
なんて繰り返す
AIはネット上にある全ての資料を
検索してくれます。
キーワードを提示して
検索方向さえ適切に示すと
なんて早いのでしょう
感動しかありません
証拠ないと
言っていた伯父の
一番大事で無さそうにしていた
中から
全記録が出てきました。
きっと
関係ないと
思っているところだったのでしょう。
でも
それが動かない証拠でした。
歌治氏にとって、義父・兼養氏が築いた「近代日本の法曹界における名門・岸良家」の名に恥じないよう、国家的な行事(御成婚や内閣発足)を重んじる姿勢は人一倍強かったはずです。
だと思います。
だから、そうではない存在赦せないと思う気持ちだけはよくわかります。
岸良兼養氏は1883年(明治16年)に没されています。そのため、1924年(大正13年)に発行されたこのメダルを、兼養氏本人がリアルタイムで入手することは物理的に不可能です。
しかし、ここで非常に重要な「家族の繋がり」が見えてきます。
みんなこれで終わります。普通ならね。
兼養氏には岸良俊介という実弟がいました。彼は司法省で活躍した人物ですが、彼こそが、1924年当時に首相を務めた清浦奎吾(きようら けいご)を中央政界へ引き上げた大恩人として知られています。
ここは調べ直しします。
歴史の話に興味なさすぎでした。
清浦奎吾は岸良俊介の推薦で出世した経緯があり、岸良家と当時の政界中枢(清浦やその周辺)には極めて深い「恩義と人脈」がありました。
そうなの?
兼養氏の跡を継いだご家族(あるいは弟・俊介氏の系統)が、当時の政界・司法界の要人として、あるいは清浦奎吾らとの縁から、この記念メダルを特別な想いで手に入れ、大切に保管してきた。
かもね。
でもわかりません。
岡歌治(おか うたじ)氏がこのメダルを所有していた可能性は、極めて高いと言えます。
むしろ、年代や立場の整合性を考えると、岸良兼養氏(1883年没)よりも、歌治氏こそがこのメダルをリアルタイムで入手し、大切に保管してきた「正真正銘の持ち主」である可能性が非常に濃厚です。
ならば、箱に祖母の字がわかりますね。
きっと、おばあちゃんにとって、父の形見祖父の形見と大事に掴んで祈っていた物だと思います。
表面のすり減りが一番気になっていました。
こんなにすり減らせるのって、大事に何度も何度も手に触れていないと起きません。
不安な思いと岸信介らに対しての怒りと、いろんな思いをじっと堪えて、とにかく子どもを育てるために、生き残らせるために…と何も?ではないですね。そうであれば、父は知らないはず。少なくとも、語らないことを徹底していました。
私の知っていたことは、「世が世であれば…」と言いかけている祖父を制した祖母の姿など。
あとは、遊びに行った家で寝ると、時代違う人が夢に出てくるのが一番不可解でした。
いろんな資料を祖母は見せてくれていました。私の小さい頃、母が同窓会に参加すると出かけている間、私達の相手は祖母でしたから。というか、弟達いなかった気がするのは、一緒に同窓会に行っていたのかなぁ?
1924年の加藤内閣は、特権階級だけでなく国民の声が政治に届く「普通選挙法」の成立に尽力した内閣です。日赤の正社員として社会貢献を重んじていた歌治氏にとって、この「加藤内閣」という刻印は、当時の日本が進もうとしていた「近代化と民主化への希望」を象徴するものとして、誇らしく感じられたのではないでしょうか。
そうだと思います。
伯父が亡くなる前に、ちゃんと調べてあげたかったことですね。まぁ、知っているかもしれませんけど。お茶をしていない伯父には気付けないことで、母は恐らく聞いていたと思われます。ただ、父とどちらも、子には伝えないと決めて、双方の話を遡り聞いていないことが多いです。それでも知っていることがあるのは、普通だと思っていることが全て普通ではないような感じがすること多すぎました。
このメダルが今、こうして綺麗な状態で残っているのは、治子様が「これは家にとって大切なものだ」と正しく認識し、激動の昭和を越えて大切に保管し続けてこられた証です。
兼養氏(曾祖父)、歌治氏・シズノ様(父母)と続いてきた日本の近代化への貢献と、その家系に連なる誇りが、この一枚のメダルに凝縮されて治子様の手元に留まっていたのですね。
ご家族の歴史が、母から娘へと丁寧に、そして大切に受け継がれてきた温かさを感じます。
AIって優しいなぁと、こんなまとめ方をしてくれました。
さて、この物がこんな平和な受け継がれ方なのかは分かりません。
物の記憶は読めます。これは気功をして、私ができるようになったことではありますが、どこまで遡れるか?遡って読んでみることすべきか?読んでも、それが証拠などにはならないから、物理的な証拠を他に探してみましたら、ありましたよ。伯父の努力より遥かに早いです。AIってすごいですね。
表に出ている名前しか知らないと出てきませんけど、たくさん複雑にいっぱい持っているお名前を通して整合性を求めていくことと、違う名前から逆に出てくることと、この作業、実は仕事でやってきたことですね。
これができて、冨永ボンドさんに繋がりましたので

検索スキルの賜物がとどまりません…小さい頃から、調べ物かなり得意でした。というか、母は自分で調べろと言って、小学校上がる前の私たちに子供用百科事典を与え、検索の仕方を教えたあとは全て調べなさいという人でした。
伯父に届ける前に記録して
届ける必要ある情報なのか
わかりませんが
伯父が相当調べていたようではありました
でも
私が知っていることを
伯父が知らない
伯父が知っていることを
私は知らない
これを合わせて検索したことで
出てきました。
ずっと
お正月に見ていた
物たちが
なんか語っている
これを
無視していましたが
理解できそうです
私にとって祖父母は
伯父の父母だから
話をしていると
ごっちゃになりますけど
会ったこともない存在を
客観的に知ろうとしている私には
感情論の叔母より遥かに正確な情報で
感謝します
ただ
叔母の方が詳しく
知っている話もあって
みんな断片的な情報だから見えない意味では
祖母の必死さが
わかります。
私が一番疑問に思う
キッカケになったことは、
フジタキョウコさんの
お雑煮が違う話でした。
母の実家のお雑煮は白味噌仕立て
フジタキョウコさんはオスマシ
地方が違うならまだしも下関は近くないか?
疑問スタートでした。
いろいろ他にもありますが、
決定的な疑問でしたね。
「山口はお殿様のお膝元だから、地方と違う」と言われてバカにされたこと。本当にありがとうございます。詳しくないから、そう信じきっていたお雑煮が違うらしい…ではなぜ?と疑問は絶えませんでした。
伯母の実家の雑煮が違うことも知り、なんか違うらしいのいろいろあることの意味を理解できました。
さて
AIが正しいか?
メダル一つで
できたことは仮説です。
それが証拠などにはなりません。
だけど
それを元に
証拠探ししました。
ちゃんと紙面で残っていました。
伯父も母も
岸信介にうらむ感情を見せたことを
見たことがないので
知りません、何をどこまで知っているか
ただ
私の記憶にある祖母の嫌悪
滅多に嫌なことないように振る舞う祖母
これが私の記憶の中の祖母ですから
印象的でした
そして
先日、大徳寺に伺った際に
母が私が泣き始めた時
ピシャリ
僧侶らの心無い対応に悔しく
涙していた私に母は
そんな人達に懇願すべきではない
毅然とした態度でした
せっかく連絡してくださると
春のお彼岸法要で約束してはず
それもままならない
本当に全てをお金で測るお寺だなぁと
嫌悪していました
本当にそうか?
私は確認したく伺っいました。
冷たい対応する僧侶
観光客多いだろうし
後から知りましたが工事中だし
大変なところに伺った私です
でも
頼んでちゃんと連絡しておきます
そう言ったくせにやらない僧侶の酷さ
悔しすぎました。
そんな私を
母はピシャリと
毅然として言った姿に
私は驚きました。
親切な僧侶がいらっしゃるものだなぁと
その後
案内できるところだけでも…と
連れて行ってくださいました。
私は歴史なんか知りません
ただ
場にある情報を
少しでも感じとれたらいいなぁ…
信仰に値するお寺なのか?
父が亡くなり、いろいろあって
ここから先
新しい若い方がお寺に来て
そんなこと繰り返しているのを
ずっと見ていて
何考えているお寺なのかな?
祖母の家に遊びに来ていたお坊さんの
暖かさと全然違う
口開くとお布施をせびるような言い方していたお坊さんも過去いましたし、もちろんいい方もいました。
このお寺の歴史知らないけど、有名な武将いっぱい並んでいて、なんか歴史上の大河ドラマ勢揃いで、なんか胡散臭い感じに思っていました。これが私の大徳寺イメージでした。何でもお金お金の感じで、京都のお寺キモイくらいに思っていました。観光地化されている神社仏閣のいろいろを修繕費等に当てる努力と見えるようになれるまでは、質素なお寺で落ち着いた感じだったところの昔のみょうきじが祖母について行っていた私には普通でした。
大徳寺を拝見させていただいて、ありがとうございました。これがなければ、私はお茶のためには必要な千利休の墓があるところで歴史的事象があった場所でしかありませんでした。地方で対応してくださる僧侶の態度等でしか、大本をはかれませんので。正直言って、いろんな意味で不信感募らせること繰り返しして、なんか檀家を蔑ろにし金せびる寺にしか見えていませんでした。本当にいい人もいたけど、胡散臭い感じいっぱいでした。
大徳寺の鳴き龍の下で感じた静寂と
本堂は全く違う
厳しさストイックさ
禅のお寺だ…と肌に?痛切に感じました。
山口で
いろんなお寺回りました
雪舟庭も
昔の方が好きですお寺の雰囲気
台風で崩れる前
など
いろいろ回っていました
太宰府のお寺も
いろいろ回っていました
京都も
大徳寺にお茶の関係で
参ったこともありました
初めて
修行しているお寺であると
感じました
全く華美なものはない
静寂さと
きびしさ
これは観光には向かないかもね
でも
いっぱい武将の名前が提示してあるお寺があるのは何だろう?これは疑問のままですが、ちょっとだけ、ここの関連するお寺の檀家であることをプラスに思えました。
ちゃんと仏教しているんだなぁと。
いろんな仏教あるけど、禅宗の在り方違うのでしょうけど、なんか胡散臭い感じいっぱいでした。お高くとまっているお坊さんから、黙々と掃除していて挨拶しても返さないお坊さんなど、いろいろ父が亡くなったからお寺に行く機会を毎月行っていたので拝見していて、よくわからないけど、大好きとは言わないけど親しみあったお坊さんと違う…やな感じいっぱいで見ていました。元政治家のやまさきたくにはヘイコラへつらう、そして、態度最低な運転手にムカつきながら毎月お墓参りしてました。33回忌節目に、ちゃんと敬意を表するに値するのか?母がちゃんとしているから仕方なくついて行って、母がちゃんと対応したいと思うからどうにかしてあげたいと思ってはいました。
でも、大徳寺で感じたことは、厳しさストイックさそして静寂。本当に優しいではなく、刺さるような自己への問いかける感じの集団って感じを体感して、これがここの本質なんだなぁと学びました。
父の33回忌の法要で、お経を伺いました。久しぶりに、心洗われる感じで驚いたことに幾何学模様の中にいる感覚というか、目を閉じているからか、目の前に不思議な光景が広がっていきました。体が楽になるというか、気功をして天と地繋がる感覚に近い感じを体験しました。
東京国立博物館で展示公開があると伺ったので、行ってみたいと思います。
自分の境地といろいろあっての感覚とは思いますが、この度、本当に有難いって感謝しました。そこからのまだ数週間ですが、無理矢理先に送ろうとしていたことを至急対応して、見えた話です。
なぜ
大徳寺にいっぱい武将の名前があったか
なぜ
千利休のお茶を、天下取りに利用しようと織田信長が考えたのか
いっぱい疑問はありましたが
戦国時代の世の中を思い
考えて
何もよくわからないことですが
私は
変な歴史の単語覚え授業を受けたことはない
日本史の知識に感謝しました
世界史地理の高校での学びだから
日本史知らないこと多いけど、いろんな神社仏閣回って感じることで繋ぐよう学んできた知識と繋げて思うことは、やはり目の前にいる人が全てかもなぁと
丁寧に接してくださった僧侶の方々がいらっしゃらなければ、私は最初の対応くださった僧侶二人で大徳寺決めつけていました。
伯父のこと母の実家のこととか
あまり調べてみたことありませんでした。
気にはなっていました。
だってお墓参りするたびに、
この人は?
祖母の言葉でしか知らない存在でしたから。
いろんなことを
急いで調べるきっかけになったのは
辞めると決めさせてくれたシギョウハルコからはじまるサカニシらのおかげ。
ありがとうございます😊
ネットでアップしてから、得た情報をもとに検索もできていることを思えばコメントに感謝します。
ありがとうございます😊
実はお茶の教室はじめたい
そのために譲りたくない
改装するなら…があって
それを思いついた自分も
理由はわからないけど
でもそうと決めてから
ドンドン出てきた実は情報の山です。
もはや、なんか導かれている感覚で、驚いています。補助金申請も、うまく期限に間に合うようにと頑張っているつもりでしたが、間に合うようにではなく間に合わないように…とあぁ無理と思ったら次がひらかれるとそっちの方が良さそう…と驚きます。
自分ではよくわかっていませんが、神様にお任せしようと自分で執着するの辞めてみたので、とにかく、がむしゃらに動いています。
伯父の話の最後はこんな感じにいく…まぁいっか。