自分が娘を3人も持つ母親になってからというもの、「この子たちが
思春期になったら恐ろしいだろうな……」とよく考える。
自分がこれまでに母に対してしてきた反抗期のあらゆるすべてを、
今度は自分がされる側になる番がいずれやってくるのだ。
因果応報とはいえ、もういくら過去の自分を反省しても遅い。
せめて娘たちも父親に似てくれれば少しは……という望みも、
残念ながらあまり持てそうにない。
夫は、私よりもさらに意思が強い頑固者なので、我が家の
娘たちは、どちらに似てもやっかいな反抗期を迎えることが
すでに保証されているようである。
しかも、3人分、3倍で。
あぁ、恐ろしい。
思春期の親離れというのは、精神分析の創始者、フロイトの
「オディプス・コンプレックス」で分析され、すでに多くの分野で
議論されているように、ほとんどの人が経験する
やっかいな大人への階段だ。
幼児期には、子どもは母親へと自分を一体化し、すべての世界を
母親と自分との関係性の中から学んでいく。
それが、権力、肉体的な能力に優れ、社会との繋がりを持つ
父という存在を介してオディプス期と呼ばれる母離れ、親離れの
時期を経験するようになる。
男性と女性では多少このプロセスが違うのだが、女性にとって
同性である母親との精神的な離別というのは、男性よりも複雑で
さらにやっかいなものであることが多い。
一卵性親子と呼ばれる人々に見られるように、完全に母親と
自分との差別化をしないまま大人になる人も多いし、
逆に母親に対して異常なまでの反抗心を見せる人もいる。
私は、確実に後者だった。
ひどい娘だったなぁ……。
そんな後悔の気持ちが、弱った母を気遣う想いに上乗せ
されているのは、確かだろうと思う。
母は、よくこうつぶやく。「ガンというのは、本当に恐ろしい
病気だと思う。ある日突然事故で亡くなってしまう人ももちろん
不幸だけれど、死の宣告をされて、それでも残された人生を
生きなければならないというのがこの病気。
でもね、自分がいなくなる前に、こうやって身の回りの整理を
したり、子どもや孫たちと過ごす機会を最後に持てるのは、
幸せなことだと思う」
自分の死を知らずに亡くなる人は、幸福なのだろうか、
不幸なのだろうか。
フェイフェル(1956)という学者の研究によると*1、
生と死の狭間で戦い続けた第一次大戦の退役軍人たちは
日ごろはあまり死について考えないにも関わらず、
ほとんどの人が「眠っている間に死にたい」と答えているそうだ。
自分が知らない間に、苦しまずに眠っているように死にたい。
極限の状態で生死について考えた経験がある兵士でなくても、
そう考える人は多いだろう。
自分自身への「死の宣告」を受け入れることほど辛く困難な
ことなんて、そうそう世の中にはない。
ガン宣告は、残酷だ。それは間違いない。
ただ、その代わりにガンを宣告された人間には、人生の最後の
チャンスも同時に与えられているのかもしれない。
残りの人生を、どう生きるのか。
最後に残された時間をどう過ごすのか。
それは、自分の死と向き合ういう過酷な体験をした者だけに
許される、人生の最後のチャンスなのかもしれない。
娘の私にも幸か不幸か、母の死、そして母とともに過ごす
残された時間について考えるチャンスが与えられた。
人間は、みないずれ亡くなる。
母親の死がいつか必ず受け入れなければならないことならば、
その時を迎えるまで、できるだけ悔いの残らないように過ごそうと
思える機会と、残された時間が与えられたことは、やはり感謝したい。
とはいえ、よく気がつき一緒にいるだけで癒される優しい娘、
という理想の娘像には、もとよりあまり近いところにいない
私のことである。
どこまで何ができるのかは、自分でもあまり自信がない。
ただ、死は怖くないと言う母も、やはり最期の時に痛みや
苦しみを味わうのだけは怖いのだそうだ。
「それだけはお願いね」と言う母の希望、
それだけは、なんとしてでもかなえてあげようと思う。
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*1: Herman Feifel. 1956, quoted in Neimeyer, Robert A., Joachim Wittkowski, and Richard P. Moser. 2004. "Psychological research on death attitudes: An overview and evaluation." Death studies 28 (4):309






