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 Not So Soon

 母が、ステージ4の卵巣癌になりました。
オーストラリアのゴールドコーストでそんな母を追いかけるドキュメンタリー「Not So Soon」と研究に平行して、フィールドノート代わりに記録をつづるブログです。
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自分が娘を3人も持つ母親になってからというもの、「この子たちが
思春期になったら恐ろしいだろうな……」とよく考える。
自分がこれまでに母に対してしてきた反抗期のあらゆるすべてを、
今度は自分がされる側になる番がいずれやってくるのだ。

因果応報とはいえ、もういくら過去の自分を反省しても遅い。
せめて娘たちも父親に似てくれれば少しは……という望みも、
残念ながらあまり持てそうにない。
夫は、私よりもさらに意思が強い頑固者なので、我が家の
娘たちは、どちらに似てもやっかいな反抗期を迎えることが
すでに保証されているようである。
しかも、3人分、3倍で。
あぁ、恐ろしい。



思春期の親離れというのは、精神分析の創始者、フロイトの
「オディプス・コンプレックス」で分析され、すでに多くの分野で
議論されているように、ほとんどの人が経験する
やっかいな大人への階段だ。

幼児期には、子どもは母親へと自分を一体化し、すべての世界を
母親と自分との関係性の中から学んでいく。
それが、権力、肉体的な能力に優れ、社会との繋がりを持つ
父という存在を介してオディプス期と呼ばれる母離れ、親離れの
時期を経験するようになる。
男性と女性では多少このプロセスが違うのだが、女性にとって
同性である母親との精神的な離別というのは、男性よりも複雑で
さらにやっかいなものであることが多い。
一卵性親子と呼ばれる人々に見られるように、完全に母親と
自分との差別化をしないまま大人になる人も多いし、
逆に母親に対して異常なまでの反抗心を見せる人もいる。
私は、確実に後者だった。

ひどい娘だったなぁ……。
そんな後悔の気持ちが、弱った母を気遣う想いに上乗せ
されているのは、確かだろうと思う。




母は、よくこうつぶやく。「ガンというのは、本当に恐ろしい
病気だと思う。ある日突然事故で亡くなってしまう人ももちろん
不幸だけれど、死の宣告をされて、それでも残された人生を
生きなければならないというのがこの病気。
でもね、自分がいなくなる前に、こうやって身の回りの整理を
したり、子どもや孫たちと過ごす機会を最後に持てるのは、
幸せなことだと思う」

自分の死を知らずに亡くなる人は、幸福なのだろうか、
不幸なのだろうか。
フェイフェル(1956)という学者の研究によると*1、
生と死の狭間で戦い続けた第一次大戦の退役軍人たちは
日ごろはあまり死について考えないにも関わらず、
ほとんどの人が「眠っている間に死にたい」と答えているそうだ。
自分が知らない間に、苦しまずに眠っているように死にたい。
極限の状態で生死について考えた経験がある兵士でなくても、
そう考える人は多いだろう。

自分自身への「死の宣告」を受け入れることほど辛く困難な
ことなんて、そうそう世の中にはない。



ガン宣告は、残酷だ。それは間違いない。
ただ、その代わりにガンを宣告された人間には、人生の最後の
チャンスも同時に与えられているのかもしれない。
残りの人生を、どう生きるのか。
最後に残された時間をどう過ごすのか。
それは、自分の死と向き合ういう過酷な体験をした者だけに
許される、人生の最後のチャンスなのかもしれない。



娘の私にも幸か不幸か、母の死、そして母とともに過ごす
残された時間について考えるチャンスが与えられた。
人間は、みないずれ亡くなる。
母親の死がいつか必ず受け入れなければならないことならば、
その時を迎えるまで、できるだけ悔いの残らないように過ごそうと
思える機会と、残された時間が与えられたことは、やはり感謝したい。


とはいえ、よく気がつき一緒にいるだけで癒される優しい娘、
という理想の娘像には、もとよりあまり近いところにいない
私のことである。
どこまで何ができるのかは、自分でもあまり自信がない。


ただ、死は怖くないと言う母も、やはり最期の時に痛みや
苦しみを味わうのだけは怖いのだそうだ。
「それだけはお願いね」と言う母の希望、
それだけは、なんとしてでもかなえてあげようと思う。



-------------
*1: Herman Feifel. 1956, quoted in Neimeyer, Robert A., Joachim Wittkowski, and Richard P. Moser. 2004. "Psychological research on death attitudes: An overview and evaluation."  Death studies 28 (4):309 



先日、サーファーズパラダイスで開かれた写真展、
そしてそのパーティーに連れて行ってもらった。



残念ながら入賞は逃したけれど
出品した作品を展示してあるギャラリーにも。



カメラを持ち始めたのは私のほうが早かった筈なのにいつの間にか
プロのフォトグラファー とやらになってしまっている彼女。

妻、主婦、娘3人の母親、学生、フォトグラファー、ライター etc

華奢な体で何役もこなしている彼女。

脱帽.....



小さい頃から負けず嫌いの頑張り屋さん。

干支の猪さん、そのまんま.....うふふ.....

どちらかと言うと甘え下手。一人で頑張ってしまう。

もう少し楽に生きる方法もあるだろうにと思うのだけれど.....

でも活き活きと動き回っている姿はこの不出来な母親としては
頼もしく、誇らしく、何よりも嬉しい。


人生の最終章を迎えつつある今、
私の傍に居てくれる事の有難さを噛みしめる今日この頃であります.....


先日、サーファーズパラダイスへ母と出かけた。
サーファーズパラダイスというのは、サーフィンのメッカでもある
ここゴールドコースト観光の中心地。街は、世界各国
からやってきた観光客であふれている。

真っ白なビーチに沿って広がるこの街では、毎年
「サンドサファリ」と呼ばれる砂の祭典が開かれる。
今年は砂に関連した写真展も開かれ、私も作品を2つ展示した。

この日は、サンドサファリの写真展のパーティが開かれたので
写真好きの母を誘って、二人で出席することにした。
写真展は、ビーチ横のSoulという高層ビルの1階で、
2月28日まで開かれている。

写真展の会場



パーティのあと、夕暮れのビーチ沿いを母とふたりでぶらりと歩いた。


母は、私が子どもの頃から「勉強しなさい」とは
一言も言わない人だった。

私が中学受験をするために毎晩深夜まで勉強していたら、逆に
「あんまり勉強ばかりしてないで、もっと休憩したら?」などと
言われて、子ども心に「なんて親だ」とあきれたような記憶がある。

隣に住む、幼馴染のゆきちゃんのお母さんは、深夜に夜食を
作ってまで応援してくれるらしいというのに。
うちの母は、私が遅くまで起きて勉強していても、さっさと
先に寝てしまうような、そんな母親だった。


だがそういう私も、親のいうことをいつもおとなしく聞いているような
子どもではなかった。しかもあの頃は、反抗期まっただなか。
振り返ってみても、我ながらあんなに扱いにくい子どもは
なかなかいなかっただろうと思う。
もともと自立心旺盛なのに、必死に親離れの道を探り始めた
ばかりの反抗期の子どもなんて、親がかまえばかまうほど
わざと反対の方向へ行ってしまうものだ。
今思うと、母は「放任主義」という名のもとに、私を上手に
突き放して遠くからコントロールしていたのかもしれない。


でも、未熟な私は、そんな母のすることなすこと
すべてに腹を立てたりしていた。
母のことを無視して、何日も口をきかなかったこともある。
今思い返すと、自分でも笑ってしまう。
道を歩く時でさえ、できるだけ母から離れて歩こうとしたりした。

反抗期のやり場のない感情を、私はすべて母に向けてしまって
いたんだろうと思う。母を否定することで、私は自分の居場所を
見つけようとしていたのかもしれない。
それまで、幼い頃には子どもにとって女神のような存在だった
母という存在が、実は普通のたった一人の人間だったのだ
という事実も、どうしても簡単に受け入れることができなかった。
こんな時、子どもというのは、自分のことを100%棚に上げて
考える特権を持つような気になっているから恐ろしい。


母とは違う大人になりたい。母を乗り越えて、母よりももっと
素晴らしい人間になりたい。無意識のうちに、ずっとそんな風に
考えて大きくなったような気がする。
母が一人の弱い人間という生き物だったと分かり、そのショックから
立ち直るには「私は母とは違う」と自分に言い聞かせるのが
手っ取り早い方法だったのかもしれない。


そんな状態が数年続いたある日、両親が別居を始めた。
私は、両親の離婚をすべてを母のせいだと思うことにした。
母のことは、さらに誰よりも許せない存在になった。
それきり、母とは大人になるまでなかなか会うこともかなわなかった。
高校1年生の頃だった。


それからしばらくして、母がオーストラリアに移住し、母の家に
遊びに来るようになってから、私の母への想いは少しずつ、
自然に変化していった。
私が大人になったせいもある。でも、会いたかったのに
ずっと会えなかった母に会うと、母に対しての愛情を否定すること
なんて、もうできなかった。


私がこちらに移住してからは、離婚して家を出て行った母へ
娘としての恨み言を少しずつ吐き出していく機会も増えた。
不思議なもので、あれほど許せないと思っていた母への感情は、
母にぶつけたとたんに1つ1つすうっと浄化していった。
私は結局、母に私の気持ちを聞いて欲しかった。
もっと母と話がしたかった。
ただ、それだけのことだったのかもしれない。




そしていつしか、私自身にも子どもができた。
母親の気持ちというものが、今なら痛いほどよくわかる。
近頃、ふと鏡の中の年老いてきた自分を見て、母に似てきたな、
と思うことも増えた。
今は、それがじんわりと嬉しい。




長い間、かわいくない、ひどい娘でした。
ごめんね、お母さん。
願わくは、これからその分も、十分に親孝行できる日が
一日でも長く続きますように。