<<第1章 専門家も注目する“下書き”の「戦闘詳報」>>



 筆者は本年7月13日、「シベリア出兵の功績者・安瀬正巳さんの子孫はどこに? 北海道剣淵町で最高軍事機密文書を発見」という記事を書いた。
http://ameblo.jp/notetake1/entry-10298760637.html
 この記事を読んでから、本日の記事をご覧いただければ幸いである。




 ご遺族の皆様、ブログ読者の皆様などのご努力にもかかわらず、安瀬さんの子孫はまったく見つからないというのが現状である。この資料を命懸けで保管していた故・村岡一郎さんの遺族もご高齢であるため、もう一度この問題を取り上げたいと思う。



 筆者は前回の記事で、2005年1月13日に筆者が北海道のある新聞社で報道した記事を掲載した。今回は、その後日談となった2005年5月19日の記事を以下に掲載したいと思う。



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剣淵町内で見つかったシベリア出兵の「戦闘詳報」。大正天皇の閲覧念頭に作成?
貴重な資料、専門家が注目。



2005年5月19日報道



【剣淵】今年1月、町内で保存されていることが明らかになった1918年のシベリア出兵の「戦闘詳報」が、当時の状況を知る貴重な学術資料として専門家たちから注目を集めている。



 シベリア出兵は、ロシア革命に伴い、世界の国々が軍事介入した事件。日本は、1922年の撤兵までに四千六百人の戦病死者を出した。シベリア出兵の事実は当時の日本政府や旧日本軍の最高軍事機密とされ、日本国民にも知らされなかった。詳細資料も第二次世界大戦の日本敗戦によって、多くが破棄されたり、失われたりした。そのため、日本近代史最大の謎とされ、現在も詳細は分かっていない。



 資料が保管されていたのは、町内在住の斉藤藤市さんの自宅。1988年、斉藤さんの義父である故村岡一郎さんのタンスを整理中に、偶然発見した。



 村岡さんは、村岡正美前町長の兄で、陸軍伍長勤務上等兵として三年間シベリアに滞在した。



 報告書の内容は、現在の中露国境沿いのアルグン川下流のアバカイド村で、旭川第二十八連隊所属の安瀬正巳(あんぜ・まさみ)小隊長特務曹長の働き振りが克明に記録されている。



 同資料の書き方には大きな特徴がある。文章の語尾につける「、」「。」がなく、地名以外での濁音と半濁音が書かれていない。



 当時の日本政府は「天皇には、濁りなき文章を献上する」として、天皇の目に触れる書類から濁音などを削除していた。このことから、同資料は大正天皇が閲覧することを念頭において作成されたと考えることができる。



 シベリア出兵研究の第一人者で、北海道大学スラブ研究センターの原暉之教授は、資料が書かれた年代を1918年と分析している。


 そして、中国との国境沿いは、この地域の白軍(ロシア革命に反対する反共産軍)指導者アタマン・セミョーノフの支配下にあったとして、同軍のザバイカル州の州都チタ市進軍を旭川第二十八連隊が所属する日本軍第七師団が支援する際の資料と見ている。そして、「資料中に頻出する『義勇軍』は、セミョーノフ軍の一部と考えられる」と話している。



 国際法学者で札幌学院大学大学院の松本祥志教授「資料から、過激派が一般住民の中に入り込んでゲリラ戦を行っていたことが想像される。また、現地住民は社会主義革命や反革命には関心がなく、むしろ日々の生活の糧にしか感心を持っていなかったような印象を受ける」と指摘する。





 資料を発見した斉藤さんは「どこかにいるはずの安瀬曹長の子孫や親戚が見つかれば、この資料を見せてあげたい」と話している。




ジ・オンライン・プレス北海道

<<写真は北海道剣淵町で発見された「戦闘詳報」の一部>>



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 前回のブログ記事を書いたあと、筆者は思いがけないことを知ることとなった。なぜなら、「安瀬さん」という姓には、「あんぜ」という読み以外にも、「あんせ」「あぜ」という読みがあることを知らされたからだ。


 筆者は「あんぜさん」という音を頼りに探していただけに、「他にも読み方があった」というのは、大きな衝撃だった。



 そして、上記の新聞記事を書いた1年後、旭川市にある「北鎮(ほくちん)記念館」のスタッフを務める自衛官から、興味深い話を聞かされた。
 北鎮記念館とは、陸上自衛隊旭川駐屯地内にあり、戦争の歴史を伝える博物館だ。
http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/2d/hokutin2/top.html



 そのスタッフである自衛官は、この「戦闘詳報」を見るやいなや、「おー!」と声を出したあとに、こう言ったのだ。「この陸軍罫紙(けいし=レポート用紙)は、下書き用だ。清書した物は、他にあるはずだ!」



 清書した「戦闘詳報」が他にあるというのは、どういうことだろうか? この戦闘詳報は、大正天皇向けに作られた書類である。「他にある」とすれば、大正天皇の手元か、宮内庁しかないはずだ。


 この自衛官の言葉は、「戦闘詳報」の重要性を大きく証明することとなった。




<<第2章 5年前の民法と同じ文体の「戦闘詳報」が読めない、低レベルなマスコミ>>



 筆者は今年6月、この「戦闘詳報」を多くの皆さんに知っていただきたく、そしてどこかにいるはずの安瀬正巳さんの子孫を探すべく、マスコミ各社に業界では「プレス・リリース」と呼ばれる「お知らせ文」と「戦闘詳報」全7ページを収録したCD-Rを配布。報道をお願いしてまわった。マスコミ業界で、記者経験者が他社の記者に「ニュースのネタ」、それも最高軍事機密文書であった「戦闘詳報」という「スクープのネタ」を配布するというのは、極めて異例なことである。



 すべては「命懸けで戦闘詳報を保管していた村岡一郎さんのご遺族がご高齢であるため、戦闘詳報の主人公である安瀬正巳さんの子孫と早く会える機会を作りたい」という切実な願いからだった。



 筆者はそこで、大変な驚きと直面することとなった。なんとマスコミの記者たちは「戦闘詳報を読めない」というのだ。なかには、「プレス・リリース」があったことを上司に報告せず、数ヶ月間も放置していたマスコミさえもあったのだ。



 この「戦闘詳報」は、一般の人から見ると、「天皇陛下に向けた特殊な文章」である。しかし、マスコミに法学部出身者がいれば、本来は簡単に読みこなすことができる文章なのだ。なぜなら、この「戦闘詳報」と同じ文体は、平成16年度いっぱいまで民法でも使われていたからだ。




ジ・オンライン・プレス北海道
<<平成16年度いっぱいまで使われていた民法の条文>>




 この民法の条文を見ても分かるとおり、文章の語尾につける「、」「。」と、濁音、半濁音がないのが大きな特徴だ。これは、上記記事にも書いてあるとおり、「『天皇には、濁りなき文章を献上する』として、天皇の目に触れる書類から濁音などを削除していた」ことに由来する。



 民法といえば、法学部1年生で習う基本的な科目である。筆者がお会いした他社の記者たちも法学部出身だったが、「読めない」という返事だった。


 民法改正がなされた平成17年度に法学部1年生だった人は、現在23歳。マスコミ業界に入社しているとしたら、今年度の新入社員ということになる。そういった人々が読めないのであれば仕方あるまい。しかし、マスコミ業界を何年、何十年と続けてきた法学部出身の記者たちが読めないというのは、どういうことだろうか?



「民法の条文のような法的文書を読めずして、どうして法学部を卒業できるのだろうか? いわんや、どうしてマスコミでジャーナリストが勤まるのだろうか? 記者たちは民法を読めないまま、仕事をしてきたのだろうか?」と、首をかしげてしまった。

 これでは、「英文学者が英語を読めない」「医者がドイツ語を読めない」のと一緒だ。



 このブログを閲覧してくださる人の中には、お会いしたときに筆者のエピソードを聞いて「マスコミは、努力が足りない」と感想を漏らした人がいた。


 まったくその通りだろう。マスコミでは、常に「過去の戦争について」が報道される。しかし、「過去の戦争資料」や民法程度の法的文書を読めずに、どうして中立で公平な報道ができるのだろうか?

「ときに戦争や歴史認識に関する偏った報道が起こるのは、そういった部分も起因するのではないだろうか?」と思わずにいられなかった。




<<第3章 過去帳や家系図に「安瀬正巳さん」という名前はありませんか?>>



 マスコミが扱わないため、資料を命懸けで保管していた故村岡一郎さんのご遺族は、私財を投じて安瀬さんを探すためのPR活動も行っているという。その努力もむなしく、まったく情報がないというのが現状だ。



 もう一度、皆様のまわりに「安瀬さん」という苗字の人がいらっしゃるかのご確認をお願いします。そして、「安瀬さん」がいらっしゃった場合は、仏壇の過去帳や家系図に「安瀬正巳さん」という名前があるか調べていただいてください。どんなささいな情報でもお待ちしております。


 そして、いつも通り、このブログに関する感想もお待ちしております。