『だって、わたし――私、大嫌いになったんだもの!』

 

玄関先で彼女が零した悲痛な叫びが、未だに耳に残っている。

デジャヴみてぇ、とジェリーは眉を下げて溜息を吐いてから、くっと笑った。

 

「そうだな」

 

キャメルが大好きだった自分の目を、マリンは大嫌いになったと泣いた。

あんなに自慢にしていたのに。自分の目に弱いことを知っていて、時たまキャメルの怒りを収める武器としても使っていた。わざと目元をゴシゴシ拭って赤らめて、ちょいと涙で潤ませて、上目遣いで甘えたに。あざといってのは解るんだが、キャメルが毎度それに絆されるのも何となく解ってしまうから困ったものだ。憎めない、というやつ。

マリンはそういう女だった。

自信に溢れているように見えて、実の所自分になかなか自信が持てなくて。お世辞抜きに真正面から褒めてくれる相方の、そういう判りやすい好意は彼女の安定剤だった。

似た色の目をしたどこぞの野郎に、キャメルが副業先で襲われるまでは。

 

「…………あんたって、ホントずるい」

「なんでだよ」

「そんな顔して、……私の方が、子供みたい」

「はは、そりゃ事実だろぉがよ、っと」

「ちょっ、!」

 

身体の下に左腕を滑り込ませ、ヒョイと華奢な身体を抱き起こして横向きに膝の上に載せた。予想だにしなかったのだろう、為されるままに懐に転がり込んだ彼女は小さく声を上げて抵抗しようとしたが、ジェリーにとっては何の意味も無い。ちょっと力加減を誤っただけで壊してしまいそうな柔い身体を抱いて、もう片方の手で白い頭を無遠慮に撫でながら、その頂に頬を寄せる。

 

「喧嘩してはぎゃんぎゃん喚いて、びーびー泣いて、息子呼び出してんだぜ。今更だろ」

 

ぐうの音も出ないらしい、何かを言いかけたキャメルは僅かに身を縮こませた。引っ込んでしまった頭を追い掛けようと前屈みになれば、逆に伸び上がってするりと細い腕を首に絡められる。猫みてぇな奴、と内心笑いながら甘んじて囚われた。大分飛んでいるが、キャメルがいつも付けている香水の匂いが鼻先をくすぐった。まろく溶ける、甘くて深いオリエンタルスパイシー。

ああ、久し振りに嗅いだな。ジェリーはそっと目を閉じて、彼女の背中に腕を回した。

もう少し。強情っぱりなこちらの母親を落とすには、今一つ。

 

「…あいつが目の色変えたのは、あんたのことが大事で、好きで、堪らないから」

 

ぴくり、と身体が一瞬強張った。

 

「声変えんなって怒ったのも、今出てってるのも全部、根っこはソレだろ。知ってる癖に」

 

――わざわざ彩晶を噛ませて、寝る時以外はアイグラスを掛けて。それも、色付きのよ。

あの日、外禁時間を僅かにオーバーして帰ってきたキャメルは、泣き疲れて眠ってしまったマリンに申し訳なさそうな顔を向けながら、疲労を滲ませてそう零した。

私が馬鹿だった、と繰り返し。店内だからと油断していたのも、夜の戯れ時に一瞬――ほんの一瞬、無意識に疾った怯えをマリンに悟られたのも。

 

「…………知って、る」

「だろ?」

 

つう、と背中に温いものが伝って、陥落の気配にジェリーは内心ほくそ笑んだ。

 

「あんたが声帯変えるって言い出したのも、どうせあいつの為なんだろ」

「………」

「マリンが好きだから。あいつが愛しいから。あいつが何より大事で、悲しませたくないから」

 

ふ、と唇の隙間から震えた吐息が零れたかと思うと、首に回された腕にぎゅうと力が込められた。おいおい絞め殺す気かよ、なんて揶揄えば、更にほんの少しだけ強くなった。生身の人間ならまだしも、到底ジェリーを窒息させる程ではないし、そもそも不可能である。こういうムキになる所は二人共そっくりだよな、と今度は胸の内だけで笑った。

 

「お互い自覚してンのに、なーんで素直になれないのかね。ったく大人気ねぇの」

 

震える肩に顎を載せて、ぽんぽんと背中を軽く叩いてやれば、巻き付いた腕の力がふっと緩んだ。少し息苦しそうにしながらずず、と鼻水を啜り、少し落ち着いたのだろう、ふーっと大きく息を吐く。

ややあって、ぽつりと呟いた。

 

「……あの子の目、好きだった」

「知ってる」

「あの子の見た目も中身も、全部好きだけど、特別で」

「おう」

 

きゅ、とまた腕に力が籠められたので、背中を擦って応えてやる。

大好きなの、とキャメルは何度も息子にそう言った。自分だけの大事な宝物のように、それはそれは、何度もしつこく自慢してきやがったもので。

故郷の色だと、そう言っていた。見渡す限り砂の山しかない寂れた土地で、それがどんなに眩しく、憧れだったか――…

 

「あの子に、おんなじ思いはさせたくなくて」

「…また喉悪くしたか?」

「平気よ。でも、今のままじゃその内ダメになるだろうって。

…結局、あの子に嫌な思いをさせちゃったわね。あーあ、どうして私達、こう上手くいかないのかしら」

 

腕を解いてのろのろと身体を戻し、向かい合う形でこちらを見上げたキャメルは、もう大分いつもの調子を取り戻していた。自嘲気味に微笑むと、ジェリーの胸にぽすんと頭を落とす。

 

「…話したらスッキリしたわ。ほんと、バカみたいね、私達」

「それも知ってるから安心しな。ついでに爆発しろ、バカップルに慈悲はない」

「何それ、フレデリックの受け売り?」

「あのな、毎度対岸の火事に無理やり巻き込まれる俺の気持ちにもなれってんだ」

「ごめん」

 

くふふ、と小さく笑う母親に、マジねぇわと悪態を吐く。

 

「俺にはキスも許しちゃくれねえ癖によ」

「あら、慰めて欲しい?」

「どの口が言ってんだっつーの、俺相手にゃ濡れねえ癖に」

「ふ、…ふふッ、アンタってほんと、最低」

「その男でいつも遊んでる奴が何言ってるんですかねぇ」

「嘘。理想の男よ、私達が望んだ通りの。…それに」

 

笑いながら、キャメルは顔を上げた。泣き腫らした目元の朱は隠せないが、暗くても尚明るい、いつもの強気を取り戻したカナリアの瞳が文字通り目と鼻の先にある。コイツの目も綺麗だよな、と内心独り言ちた。

 

「それに?」

「私達だけの、最高の玩具よ」

 

続きを促せば、彼女はうっそりと目を細めて唇を重ねてきた。

 

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やっとこさ続き。