鍵を翳すと、認証のランプが点灯し、カチャリという小さな音と共にロックが解除された。

特に声を掛けることもなく、塞がっていない方の手で扉を開き、隙間に身体を滑り込ませる。玄関周りの灯りは点いていなかったが、入ってすぐ左の大きな水槽が眩いばかりの光を放っているお陰で、さして視界に不自由は感じなかった。

そして、槽内からこちらを出迎える麗しい女性が一人……否、一匹。

 

『ジェリー!オ帰リナサイ』

「ああ、ただいま」

 

彼女はこちらの姿を認めるや否や、その美しく艶めかしい身体をくねらせ、嬉々として近寄ってきた。歓迎の挨拶に応えるべく、こちらも壁面に唇を寄せる。目を閉じてアクリル板越しに軽く口付けをすれば、彼女は満足げにその優美な尾鰭を揺らした。

いつ見ても溜息が出るほどに美しい雌だと思う。80cm近いその身体は薄っすら青みがかった白銀のすべらかな鱗に覆われ、ささくれや綻びの一つも見当たらない。薄く光に透け、ゆらゆらと儚げに揺れる鰭は筋の一本一本が微妙な光の加減できらめき、目にした者を虜にしてしまう。特に長く伸びた胸鰭と背鰭の一部は、お伽噺に聞く天女の羽衣を思わせた。目の上のくっきりとした青色のラインもアクセントになっていい。宛ら化粧のようで、美人がより一層引き立つというものだ。美しいものに目が無い両親が一目惚れしたというのも納得である。

さて、その両親――正確には、片割れに呼び出されたわけであるが。靴を脱ごうとした所で、いつも並んでいる靴が一組足りないことに気が付いた。

 

「まだ戻ってないのか」

 

途中、電車のトラブルで思わぬ足止めをくってしまったので、呼び出されてからそれなりに時間が経っている。まだ深夜には遠いが外は既に暗かった。この辺りは比較的治安が良いとはいえ、女の一人歩きには不安を覚える時間帯に差し掛かっている。

 

『エエ』

「出てったのはいつ?」

『16:22』

「晩飯の諍いにしちゃ早いな。…俺に何か伝言は?」

『"迎えは要らない。今日中には帰る"』

「ん、了解。あんがとさん」

 

お礼にと水槽の壁を一撫でして、じゃれつく程度の「ご褒美」を与えてやれば、嬉しそうにその長い身体を壁面に擦り付けて甘えてきた。飼い主から聞いた話によると、普段は決してこんな甘えたな姿はお目にかかれないらしい。機嫌によっては姿を見せない時すらあるのだとか。自分は精々二月に一度くらいしかここに顔を出さないのに、懐かれたものだと苦笑する。尤も、お互い飼い主に振り回される立場であるが故に、親近感が湧くのはさして不思議ではないだろう。ジェリーも彼女のことは好ましく思っている。

称賛を与えられることに慣れ切った堂々たる女王のような風格を漂わせながらも、ほんの些細な一言二言に嫉妬を向けるのだ。そこも可愛げがあって気に入っている。ついでに言えば、飼い主もそういう所が好みらしい。あの二人と嗜好が近いのは何となく複雑な気持ちになるのだが。

久し振りの再会だと言うのに、すぐに他の女の話をされては彼女も面白くあるまい。こういうご機嫌取りは大事だ。礼を欠いたことへの詫びも込めて、求められるだけ与えてやった。

 

いつだったか、彼女のジェリーに対する態度を見て、やっぱり雄に惹かれるのかしらね、と片親が笑っていたのを思い出す。その言葉に、似た者同士だからじゃない?ともう片親があっけらかんと笑っていた。

いつもそんな風でいてくれたらいいのだが、世の中そう上手くはいかないらしい。もう充分だろうと、水槽から離れた手を名残惜し気に見つめる彼女におやすみ、と小さく声を掛けてから、靴を脱いでスリッパに足を通した。

 

『…最近多イノ。来テクレテ良カッタワ』

「うん?」

『話ヲ聞イテアゲテ』

 

それだけ言ってしまうと、彼女はすい、と身を翻して水槽の奥へと泳いでいく。ふわりと幻想的に揺らめく長い鰭を伴って、やがて奥の暗がりに溶けるようにその姿が見えなくなった。まるで幕の降りた劇場のように水槽の光量が絞られ、辺りはぐっと暗くなる。

何だかんだ言って飼い主のことは気にしているのだ。常日頃共に暮らしている彼女の方が二人のことをずっとよく知り、学び、理解している。本来ならわざわざ自分が出向かずとも、彼女の方がずっと巧く丸め込んでくれるのだろう。彼女が二人に与えるそれは目に見えるものや言葉にするものでなく、二人を包む空気のようなもの。態度には表れずとも、それは飼い主の平穏な日常の一片となって溶け込んでいる。

 

ただ、残念なことに、彼女には家を飛び出す飼い主を引き留める術がない。

寂しさに震える身体をそっと抱き締めてやる腕がない。

目尻から零れる涙を拭ってやる指がない。

 

それらをやるのは、ご丁寧にまともな手足を持たされた自分の役割なのだ。大変遺憾ながら。

今日何度目か判らない(途中から数えるのを止めた)溜息を吐いて、家の奥へと足を向けた。

 

----------

魚にも惚れられる男の話。つづく