「ァあ゛?」
スピッツが扉を開けた途端に、聞こえてきたのは同室の男の不機嫌そうな声だ。
何事かと一瞬眉を寄せたが、どうやら原因は男の左耳に当てられた携帯端末にあるらしい。
同室の男――ジェリーは部屋の真ん中に敷かれているラグの上に胡坐をかいて、こちらに背を向けている。今日も今日とて派手なツートン・カラーの長髪は雑にヘアクリップで留められ、零れた髪の毛の隙間から項が覗いていた。
元々が色黒の自分と比べると肌色は大分白く、首から上だけを見れば女性かと疑うような後ろ姿だが、首から下は細くとも決して華奢な身体ではない。
「それで?…ああ、………知るかよそんなの。……あのな、毎度俺を巻き込むなっての」
ジェリーは不機嫌を露わに一言二言返しているが、何度か頷く内に、聞く態勢に入った。
経験上、こうなってしまえば、面倒を好まない彼が陥落するのは割と早い。スピッツは黙ったまま扉に背を預け、腕を組んで静観することにした。
徐々にジェリーが口を開く頻度が減り、反比例して端末が喋る時間が長くなり、更にジェリーが「で?」だの「ん」だの、一文字程度しか言葉を発しなくなり。
最後に長い溜息を吐いた後で、遂に手を挙げた。否、音を上げたと言うべきか。
「わぁったよ、行きゃあいいんだろ。行ってやるよ、ったくしょうがねぇな」
ぶっきらぼうにそれだけ告げると、ジェリーは返事を待たずに端末を弄って、通話を切り上げてしまった。
悪態を吐きながら頭をガシガシと掻く姿に苦笑を漏らしつつ、漸くそこで声を掛けた。
「お袋さんか?」
「あぁ……悪かったな」
「いいや。今度は何て?」
気を遣わせたという謝罪に、気にしてないと軽く手を振る。入口から向かって右の二段ベッドの下段(ここがスピッツの寝床だ)に腰を下ろし、様子を窺うと、眉間に皺を寄せて端末を睨んでいた。きっとメッセージか何かが送られてきているのだろう。すいすいと何度か指を画面に滑らせた後、「いつもの下らねえやつだよ」と言い捨てて端末をポケットに仕舞い、そのままよっこらせ、と立ち上がった。
「ちょっと行ってくるわ。明日には戻る」
「ああ、行ってらっしゃい」
こちらを振り返って告げられた簡素な言葉に、こちらも簡潔に返す。
どこへ、などとは訊かない。事情を知らない残り二人の同居人ならそうしたかもしれないが、彼らよりも付き合いの長いスピッツはよく心得ていた。幸い、明日は休暇である。いかに気の置けない間柄といえど、プライベートに首を突っ込むのは野暮というものだ。
適当なコートを羽織り、さっさと身支度を済ませたジェリーを見送ってから、スピッツはごろりと寝床に転がった。そうして暫く低い天井を見上げていたが、ふ、と口元が緩む。
「何だかんだ言っても、結局行くんだよなぁ」
仲間内でも、このことを知っている者は少ない。スピッツ自身、彼と同室で過ごすようになって暫く経ってから知ったのだ。恐らく他に知っているのは、彼と同じ出自のボスと、何でも知ってそうな美人秘書、あとはお互い「見せるもん全部見せ合った(意味深)」と豪語するほど親しい古参仲間のハンマーくらいだろう。
皆が知らない彼の秘密を知っている。たったそれだけのことだが、それがスピッツには何となく嬉しくて、にやにやしてしまう。
結局、相も変わらず、自分はジェリーの、ジェリー・ヴォーカル・ラブロックのファンなのだ。
機工部の一員として、ラジオ番組のアシスタントして、時にバンド活動の花形として、彼の隣に立つことを許されて尚、昔ながらの彼に対する憧れはちっとも色褪せていない。未だに、スピッツの中でジェリーの存在は目が眩むほどのカリスマ性に溢れ、輝いているのだ。
その、彼が。
二月か三月に一度、母親に呼び出されて、渋々実家(?)へ足を向けている、などと。ジェリーという人物を知る者の中の、一体誰が想像できようか。いやできない。そもそも、彼の出自の所為もあるが、彼の普段の言動から家族を想像させるような端緒は何一つ出てこないのだ。スピッツも最初は心底驚いた。危うく彼の中のジェリーのイメージが一部崩れそうになったが、そんなジェリーもアリかとすぐに持ち直した自分も相当末期だと思った。それはさておき。
女性からの逢瀬の催促であったり、褒められたことではないが痴情のもつれであったり…、そういう類の電話ならば嫌味なほどしっくりくるのに、それがまさか、母親からの呼び出しとは。
しかも、彼は毎度文句を言いつつも、律儀に顔を出しに行くのだ。
恐らく、ここはファンの間でも意見が分かれる所だろう。いつものさっぱりとした彼らしくない、という意見と、意外だけど何となく解る、という意見と。勿論スピッツは後者だ。そして恐らくだが、ファン歴の長い者や年長者は後者派が多いだろう。昔のスピッツもそうだったが、若者はジェリーのパンクス的な面を誇張し、熱烈に支持している節がある。有り体に言えば青いのだ。スピッツ自身もまだ若者に分類される年齢だが、流石にティーンとは違う見方ができるようになった。尤も、機工部へ来て所謂リアルの彼を知ったことが一番の要因であることは間違いない。
そんなわけで、万が一にも彼の危惧するファン同士の対立が生じた際は、年長者らと共にまあ待てと若者衆を宥め、がっしと肩を組み、こういうギャップも彼の魅力に華を添えると思わんかねと囁き、懐柔する計画を立てている。まあ、億に一つもこの呼び出しの事実が暴露されることはないと思うので、永遠に日の目を見ることはないであろうが。例えばの話だ、例えばの。
ふくく、と我ながら下らない妄想に鼻で笑ってから、夕飯まで一寝入りしようと目を閉じた。
----------
適当に漫画を描いてたら、途中で気力が尽きたので文字に変更。
一人称をファン(男)にしたら途中からアイドル(男)を崇める話になった。全体的に崇める話だからいいけど。自分(作者)が最近ジェリーを眺める度に「何でこいつこんなにカッコいいの?馬鹿なの?イケメン爆ぜろ」としか言わなくなってきたから、とりあえず治療のために書き始めた。
R15とまではいかないが、R12くらいの表現は出てきそう。正直、そういう指定のこと知らない。それ言ったらこれまで書いてた夢オチの中に結構な頻度でR15的な内容がある気がしてならない。まあ、今回の場合はエロい方向で、という注意。