朝。

今日は休日だ、と胸の内で穏やかに喜びを噛み締めながら、

のろのろと時間を確認して、もう少しだらだらしたい欲求をなんとか抑えつつ、

そろそろ活動を始めるかと身体を起こす。

 

作り置きの簡単な野菜スープを温めて、パンを焼いている間に、

洗濯物を洗濯機に放り込んでいく。

今週末は土日とも晴れらしいから、暫く洗えていなかったシーツを先に洗うことにする。

焼き上がったパンと温めたスープ、ヨーグルト、それに市販のスムージー。

休日の朝飯にしては豪華な方だ。

 

朝飯を食べている間に洗濯機を回し、

食後に少しのんびりして、食器を片し、コーヒーを淹れるための湯を沸かす。

天気が良いから、少し前に引っ張り出した掛け布団も干すことにした。

洗濯が終わったシーツとともにベランダに引っ掛けてから、コーヒーの用意をしていく。

フィルターをセットした辺りで、やかんが鳴いた。

粉を気持ち多めに入れて、少し置いてから湯を注ぐ。方がいいらしい。

少し注いだら、30秒待ち、残りを100円玉を描くように注ぐ。といいらしいが、そこまで拘りがあるわけではないので、少し注いで、後はしばらく放っておく。

そもそも、口の細いやかんでもなし。加減を誤って、どば、と注ぐこともしょっちゅうだ。

 

蒸らしている間に、残りの洗濯物を洗濯機から掻っ攫っていく。

いつからこの順序が出来上がったのかは、もう憶えていない。飯を食べる間に洗濯。洗濯物を干す合間にコーヒーを淹れる。その他の後片付けが終わったら、音楽とコーヒーをお伴に仕事か趣味の時間の始まりだ。

生憎と、今日は仕事の時間だ。残念。

 

洗濯物を干し終わって、右手で歯磨きをしながら、左手で残りの湯をフィルターに注いでいく。

すぐにコーヒーを飲むのに歯磨きをするのかと言われたら、その通りだと言うしかない。朝飯を食ったから歯を磨く。それだけだ。

何度かに分けて、気持ちゆっくりと湯を注ぎながら、雑然としたいつもの部屋を眺めて、

ものを減らそう、と、もはや何度目か数えてすらいないことを思った。

 

少し前に実家に戻った時も、大分ものを減らしてきた。

小中学の時のものは、実家を出る前に思い切って捨てた。

本当に思い切ったものだと、今でも自分に感心する。自分が今も生活の一部にしている、趣味の原型、もしくは根本、と言ってもいいそれは、それまで心底大事に大事に抱えていて、

一生抱えていくものだと思っていたし、自分が生きていくのに、なくてはならないものだと思っていた。

その時のことを、この日記に書いたかもしれない。それも憶えてはいない。

 

その時の自分がどうして捨てようという結論に至ったのかは、ぼんやりとしか憶えていないけれど、

きっと、それらがなくても生きていけると思ったんだろう。

それらを失っても、また新しくつくっていけばいいんだと、そう思ったんだと思う。

ずっとそう願っていた通り、自分で燃やしたのははっきりと憶えている。

冬だったから、うっかり火が燃え移らないようにと、やきもきした気持ちも。

ノートってなかなか燃えないんだな、ていうのも、その時の感想だ。

 

あれから、大分拘りは減ったように思う。

自分の中で一番と言ってもいいものを捨てられたのだから、当然と言えば当然か。

だから、少し前の帰省では、高校と大学時代のものを大分捨てた。

いくつかはどうしても捨てられなくて一人暮らしの家に持ってきてしまったけれど、

きっと、この家を出ていく時にはそれらも捨てるだろう。

 

ただ。手紙だけは捨てられなくて、小学の頃からのそれを、ずっと手元に残している。

整理していると、懐かしい思い出も見たくない思い出も、当時の時間のまま、文面としてそこに残っているのを見て、ああ、こんなこともあったっけ、と、ついつい手が止まってしまう。

他人からのぬくい言葉は、どうしてなかなか捨てられなくて、今も缶箱の中に詰めたままだ。

あれは当分捨てられそうにない。尤も、無理に捨てなくてもいいものだろうけど。

 

淹れ終わったフィルターを片して、歯を磨いていた口を漱ぐ。

フィルターと一緒に、流し場に片しておいた食器もついでに洗ってから、コーヒーを机の上へ。

少し前にも書いたけど、ブラックで飲めるようになったのは、今でも自分の中で新鮮味がある。

兄貴から譲ってもらった音楽プレイヤーにスマホを接続して、

すいすいといくつかアルバムを選んで、

心地よいBGMを聴きながら、パソコンを開く。

 

心地よい休日の始まりだ。