失敗した、と思った。

 

早鐘のように喧しく響く心臓の音を鬱陶しく思いながら、

先程から真っ白の頭をどうにか働かせようと、目を閉じて、深く息を吸い込もうとした、

その時。

 

猛獣の低い唸り声のようなものが聞こえたかと思うと、

直後に一瞬、強い風圧を感じるとともに、

あまり聞きたくないような生々しい、鈍い音がして、

そのまた直後に、何かが固いものにぶつかった音がして、

それから、辺りは急に静かになった。

 

目と鼻の先にあったはずの剣呑な気配が消えたので、

恐る恐ると瞼を持ち上げると、そこにいたのは、

先程から私を取り囲んでいた連中三人のうち一人と、

二週間前に雇ったばかりの、今日は体調不良で早退したと聞いた、

2mを優に超える背丈の新入社員で。

 

壁のように立ち塞がっていた二人は一体どこへ行ったのかと首を巡らせてみれば、

アパート奥の壁の前で折り重なるように倒れ、完全に伸びていた。

残る一人は、突然の事態に頭が追い付いていないらしい。

口を半開きにしたまま、呆然とその巨体を見上げている。

 

どうやら、私は「また」彼に助けられたらしい。

まだ暫く現実に戻ってこれそうにない残り一人を横目に、幾分か早く冷静を取り戻した私は、

無意識に止めていたらしい息をほっと吐き出した。

 

「後はやっておくから、お前は早く休みなさい。

…また随分と派手にやらかしたな」

 

無事を確かめようとしたのだろう、こちらへ差し出してきたヤハの手をやんわりと遮って、

私と彼の間に割り込むように、且つ、一人残された恐喝犯との壁になるように、

そのすらりとした長身を滑り込ませてきた人物は、

明らかに警官と判る制服に身を包んでいて。

 

頭の中にある「お巡りさん」のイメージの安心感からか、

それを見た途端に緊張の糸が緩んだらしく、強張っていた身体が解れたのと同時に、

何処かへ行っていた痛みがじんじんと主張し始めた。

見た目にも腫れているのだろう、警官はすぐに気が付いた。

 

「殴られましたね。他には?どこか酷く痛むところはありませんか?」

「いえ、顔に一発やられただけです。後は、腕を強く掴まれて、付け根が少し痛むくらいで。

大したことはありません。…ヤハ、そんな顔をしなくても、大丈夫だ」

 

さっきからじいっとこちらに向けられる視線に、思わず苦笑いしてしまう。

残念ながら彼に目元は無いので、口元と雰囲気で察することしかできないのだが、

そこにはありありと「心配」の二文字が見てとれる。

そもそも、私が彼の体調を心配して様子を見に来たというのに。

そうだった、と本来の目的を思い出して、少し離れたところに佇む彼の元へ行きたいと思うが、

それにはこの警官が通せんぼをしているような状態で。

 

ちら、と目だけで窺ってみれば、警官の彼もこちらを見ていて。

ぱちぱち、と二度瞬きをして、一言。

 

「…彼をご存知で?」

 

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もしよければ、という誘いを二つ返事で了承して、

念の為、ということで警察署の近くにある病院で傷の具合を診てもらい、

病院に隣接しているカフェでコーヒーを飲みながら、例の警官のシフト明けを待っている。

 

泣き寝入りという訳ではないが、

恐喝の件については、どうこうする考えはあまりない。

どう見てもあちらに非があることに変わりはないが、こちらも甚く不注意だったと反省しているのも事実だ。

 

 

うちは給料は割といい方だし、ちゃんと住宅手当も出るから安心しろとか、

人目にはつくかもしれないが、そこそこ立派な社宅もあるからとか、

必要なら、私個人の意思で衣食住は極力保証するつもりだとか。

 

そういった類の提案全てに首を横に振り、これまで通りにと、

普通の人ならまず最初に候補から外すであろう、

ノンゼロ南区の中でも治安の良さランキング最底辺を争う地域の、

他の社員の住宅手当分で家賃にお釣りがくるんじゃないかと思えるような、

質素なアパートを住処にしていると聞いたのは、

彼を社員として迎えてから四日後のこと。

 

保証人には私の名前を使って構わないし、安全面を考慮してももう少し良いところに住んだ方が良い、と何度も引っ越しを勧めたのだが、

彼は感謝こそすれ、とうとう首を縦に振らなかった。

 

馴染みのある場所だし、知り合いも近くに住んでいるから、心配は無用だと。

逆に、「普通の人」が暮らす場所は自分には住みにくい、と言われてしまっては、

それ以上強く出ることもできなかった。

彼の外見の特異さは誰が見ても明らかであるし、それを常に意識する生活を強いられてきたのだろう、とは容易に察しがつく。

 

ノンゼロはそれ自体が特殊な都市だ。

中でも南区は治安が良くない方で、ノンゼロの特殊性から生じる歪みというか、

仄暗い部分をそこへ押し込めているようなきらいはある。

それは一般の人間からすれば忌避すべき場所であり、

そうでない人間からすれば、ある意味で過ごしやすい場所なのだろう。

 

私は前者であり、更に言えば、その中でも恵まれている方だと思う。

そんな人間が歪みの中でのこのこと一人歩きをするなど、どうぞ襲って下さいと、

自ら餌食になりに行っているようなものだ。

それにしたって三人がかりとは卑怯な気もするが、

三人とも息子と近いくらいの、まだ成人していない若者だったことも、

この都市の歪みを直接突き付けられたような気がして、

腫れた頬とは別に、胸の内側の鈍い痛みを覚えた。

 

この地域のことをよく知っているのだろう、例の警官には、

あなたには罪は無いが、と前置きをされた上で、

できれば、貴方の為にも、彼らの為にも、

今後この辺りを歩く時は気を付けて欲しい、と釘を刺された。

 

彼らには心の余裕が無いのだと。

全員前科持ちらしいが、何度絞っても言い聞かせても、心の渇きが酷くなるばかりで、

他人の余裕を見ては羨んで、憎んで、奪ってしまうのだと。

そろそろ、周りも更生を諦めているーーパトカーに押し込められた若い三人を見送って、

そう溜息をこぼす警官は、淋しそうな目をしていた。

 

 

「お待たせしました。すみませんね、突然こんなお誘いをしてしまって」

 

端末を眺めていた顔を上げると、先程の制服よりもラフな格好の警官が立っていた。

制服の時は露出が少ないせいで違和感を感じなかったが、黒い布で首をぐるりと覆っているのが少し気になった。

 

「いえ、大丈夫ですよ。むしろ、こちらとしても有難い」

「それは良かった。少し歩きますが、知り合いの店があるんです。よければそこへ」

 

手早く机に広げていたものを片付け、カップとソーサーを返却してから、カフェを出た。

 

「行きましょうか」

 

扉を開けて待つ紳士的な振る舞いに、穏やかな表情を持つ人物。

彼はその名を、シラバスと名乗った。

 

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幕間ほど長くなってしまう現象をどうにかしたいけれど、

スピーディ過ぎるのもどうかと思ってしまう。

読む時のスピード感は大事だと思っている。