不運にも、現場へ視察に出掛けた先で事故に巻き込まれ、

幸運にも、通りすがりの大男に命を助けられた。

 

あれだけの事故が起きながら、

大した怪我人が出なかったのは本当に奇跡としか言いようがなく、

あの時もしも彼が通りすがらなかったら、と未だに背筋が冷えるのは、

社長を含めた上の方の連中の間では、完全に同意、の一言しかない。

 

そんなわけで。

 

「彼を雇ってもいいよな?」

 

事故の後、無事を伝えるついでに、昔ながらの友人でもある社長に電話でそう言うと、

とりあえず無事で何よりだと言われ、

次に、とりあえず履歴書を持ってこいと言われたので、

聞いた限りの彼の情報を伝えたところ、

一度だけ正気を疑われて、

正気だと返したら、

承認の返事が返ってきた。

 

 

だって考えてみてほしい、

偶然通りすがった彼は仕事を探しているところで、

その時も、紹介された会社の面接に行く途中だったそうだ。

当然、面接はまた日を改めてという話になったらしいが、

私は内心ガッツポーズを決めていた。

 

「それなら、うちに来ないか」

 

たまたま私が現場に視察に来ていて、

たまたま彼がそこを通りすがった。

たまたま助けられた人間の中に副社長の私がいて、

たまたま彼は求職中で、

たまたま我が社がちょうど求めている人材ときた。

これを縁と言わずして、何と言おうか。

 

そして何より、

まるで息をするかのように、平然と命をすくい上げ、

必ずや恩返しを、と息巻いた私に暫し呆気にとられた後で、

口がきけないため付添人を介してではあったものの、

『一言お礼をもらえれば充分で、それはもうもらったから、何もいらない』

と微笑んだ、その人となり。

 

それは格好つけでもなく、ただただ純粋無垢に、

こちらの無事を喜んでくれているのだと、そう感じられる表情で。

 

もうそんな年齢ではないと重々承知してはいるが、

あの時の私は確かに、幼い少年が正義のヒーローに向ける熱い眼差しのような、

尊敬と憧憬の詰まった瞳を向けていたと思う。

 

人生の中にこんなチャンスはそう滅多にあるものではないが、

何より肝心なのは、それを掴み損ねないことだ。

だから私は躊躇いなく、ありったけの口説き文句を出し惜しみなく並べ連ねて、

さあ断ってみろと言わんばかりの盤石な布陣を敷いた上で、手を伸ばした。

同席していた部下には「ほぼ脅迫でしたよ」と苦笑いされるほど。

 

それなのに、だ。

 

事務所へご足労願い、喋れない彼の代わりに付添人と応酬をしている間、

当の本人は所在なさげにその巨体を縮めてソファにちょこんと座り、

ただじっと、膝の上に置いた自身の両手を見つめているだけで。

こちらの提案に肯定も否定もせず、まるで置き物のように息を潜めていた。

 

正義のヒーローと見紛うほどの、先程の頼もしさは一体何処へいってしまったのかと、

付添人に目だけで問えば、彼は小さく肩を竦めてみせた。

 

「あー…いや、コイツ、吃驚してんすよ。貴方みたいな人、初めてだから。

俺も相当驚いてますけど」

「驚くとこうなるので?」

「驚くっていうか…ああ、慣れてない、の方が正しいっすね。そういう"優しい"言葉に。

あとは多分、怖がってるんでしょう」

「怖がる?私を?」

「いや、"貴方を巻き込むこと"に対してですよ」

 

ぴくり、と付添人の隣に座る彼が身動ぎした。

それに気が付いているのかいないのか、付添人は表情を変えずに淡々と続ける。

 

「いいですか?彼を雇った瞬間、貴方は"巻き込まれる"んです。

最悪、貴方だけでなく、貴方の会社の方々も。

それを怖いと感じるのは、巻き込むことに怯えるのは、決して不思議じゃあない」

 

確かに、彼がいかに多くの厄介を抱えた人物かは散々聞かされたし、

貴方のような人間が関わるべきではない、という言葉も何度も聞いた。

口がきけないこともそうだが、その他にも彼は、普通の生活をするには複雑すぎる色々を抱えていて、

善良な、ごく一般市民の手には余るのだと。

 

付添人の言葉に、彼は強張っていた肩をほんの少し緩めて、

相変わらず視線は下に向けたまま、詰めていた息を小さく吐き出した。

沈黙を以て何とやら、といったところだろうか。

隣に座っている部下の困惑と、挑んでくるような付添人の視線を少々煩わしく思い、

一度、目を閉じる。

 

そういえば、彼の声をちっとも聞いていない。ちり、と苛立ちが募った。

 

「ヤハ」

 

やや硬質な声音で名前を呼ぶと、瞼の向こうでひゅ、と息を飲む音がした。

 

「失礼。…否、失礼を承知で申し上げるが、私はまどろっこしいのは嫌いだ。

私は君の事情とやらを聞いた上で、それでも君を欲しいと思っているし、

その気持ちは寸分たりとも揺らいでいない。

これは恩返し云々ではなく、私の正直な気持ちだ。我侭だと言っていい。

それでも、君がどうしても嫌だと言うのなら、縁が無かったと潔く諦めよう。

それは君の権利であり、首を縦に振るのも横に振るのも君の自由だ。

ただ、私は他の誰でもなく、君自身からの答えが欲しい」

 

そこまで一気に言い切って、それから瞼を上げて、彼を見た。

彼は、この部屋に来て初めて顔を上げていた。

バイザー越しではあるが、私を見ている、と感じた。

視線がぶつかったことに僅かに瞠目したものの、冷静を装って続ける。

 

「いいか、君が決して後悔しない返事をくれ。

考える時間が欲しい、と言うのならいくらでも待とう。時間は必要かね?」

 

少しの間があってから、ふるり、と首が横に振られた。

 

「では訊こう。ヤハ、もし君さえよければ、うちへ来てくれないだろうか?」

 

彼の視線は真っ直ぐ私に向けられたまま、外されることはなく。

肚を決めたのだと、否応無しにそう感じさせる力強さを感じた。

それはあの時に見た、ヒーローを思わせるそれで。

眩しいと、思わず目を細めてしまう。

 

そうして私はようやく、

彼の首を小さく縦に振らせることに成功したのだった。

 

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一度書き上げてから、

コレジャナイとまた一から書き直して、

80%くらい書き上げて、なかなか満足いってたところを、

寝ぼけてデータを削除してしまい、

もうどうでもよくなって大雑把に書き直したもの。

 

気にくわない所は多々あるけれど、ラフだもんな、と自分を納得させる。