『ビルから落ちて、その後の記憶がないの。
けれど、気が付いたらビルの上にいるの』
しょりしょり、と鋏で髪を切っていた。
真っ黒で、暫く洗ってないんだろう、脂で少しテカテカとした髪だった。
ちゃんと洗えよなーと小言を言いながら、ちょこんと大人しく椅子に座っている奴の前に立って、やや伸びすぎた前髪を切っていた。
その前髪の隙間から覗く双眸に、一瞬、手を止めた。
はっとするような、紺碧の瞳。
黒目が無くて、白目の中に、紺碧の円が静かに浮かんでいるだけで。
お世辞抜きに、綺麗だな、と。
そう思いながら、何でもない風を装って、またしょりしょりと髪を切っていく。
「こんなもんか」
全体的にもっさりしていた頭が大分すっきりして、そいつも軽く首を振ってから、さっぱりしたのだろう、晴れやかな顔をしていて。
嬉しそうに目元が弧を描いて、その美しい紺碧に、また視線が囚われる。
ああ、
あんまりに綺麗だ。
「本当に、お前の目は綺麗だな」
そう言うと、そいつは少し恥ずかしそうにして、顔を俯けた。
まあ、そりゃ恥ずかしいよな、と俺も笑う。
「あー、でも、後ろはまだやってないから。後でちゃんと整えてもらえよ」
後ろ髪の具合を見るために、少し体を乗り出して、座っているそいつの脇に屈む。
今のままでも大して問題はないだろうが、如何せん「素人がとりあえず切りました」感が否めない。仕上げは手馴れてる奴にやってもらった方がいいだろうな。
そう思いながら、体を引っ込めて元の立ち位置に戻ろうとして、ちょうどそいつの真横の辺りで、止めた。
そいつが、横を向いて、俺を見ていて。
何故か涙をこぼしているから。
それを見て、俺はぱちぱちと瞬きをして、一気に混乱の渦に突き落とされたけど、
紺碧からこぼれる涙はひどく美しくて、
ああ、涙を宝石のようだと形容した文章をどこかで読んだことがあるけれど、
あれってマジなんだな、とか、そんなことを考えて。
いや、それどころじゃないだろ、俺。
「ありがとう」
それはきっと、髪を切ったことに対する礼、だったのだと思う。
そいつは大混乱中の俺をよそに、宝石のような涙をこぼしながら、ただ微笑んでいた。
そしてその時にようやく、
そいつの隣にもう一人の人間が座っていて、
そいつの更に向こうにもう一人女が立っていて、
その女が、目の前の奴の頭に拳銃を突き付けているのが見えた。
俺と女の間に挟まれた、二人の人間の頭。
そして女の手に握られている、拳銃の射線上にある三つ目の頭が、ちょうど俺のそれで。
それを理解したのとほぼ同時に、女が引き金を引いた。
ゼロ距離からの銃撃で、一人目の頭は余裕で貫通するだろう。
二人目はどうだろうか?そんなの、拳銃の扱いも知らない俺が知る由もない。
ただ、昔、拳銃の威力をテストするために、
至近距離から実験動物の側頭部をぶち抜くとか、
そんなクソみたいな実験の話を読んだな、とか。
どうでもいいことが頭に浮かんだ。
咄嗟に目を瞑ったから判らなかったけど、
何かの衝撃を受けて倒れたから、きっと頭二つを貫通したんだろう。
自分は生きているんだろうか。これから死ぬところだろうか。
恐る恐る、目を開けた。
座っていた二人が床に倒れて、頭から血を流して死んでいるのが見えた。
痛みは確かにあるけれども、どこが痛むのか判らない。
判らなくていい。
そんなことは、どうでもいい。
今。
今、やるべきことは。
体が動くと判った途端に、がばりと起き上がり、女に掴みかかった。
すると女は、自分で自分の眉間に銃を向け、躊躇いなく引き金を引いた。
しかし、弾切れだろうか。かち、かち、と軽い音がするだけ。
死ねない、という諦めがほんの一瞬、女の顔を過った気がした。
そんなのは、許さない。
強引に床に押し倒して、馬乗りになって、
近くに落ちていた銃を拾って、女の手に握らせる。
死ね。ちゃんと死ねよ。なあ、
そして今度こそ、自分で自分の頭をぶち抜かせた。
力のなくなった女の腹の上で、俺はほんの少しの満足感と、圧倒的な喪失感に崩れ落ちる。
なんで、なんで、なんで。
なあ、なんであいつを殺したんだ。
あんなに綺麗だったのに、
あんなに・・・
じわりじわりと、赤く染まっていく床を前に、ひとり。
涙が止まらなかった。
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大分前の夢オチメモがあったんでサルベージ。
冒頭のは別の夢らしい。台詞しかメモってなかったからね、仕方ないね。
夢の中の色は、得てして強烈な印象に残ることが多い。