ソフトボール練習でこさえた痣が、日が経過してますます気味悪い色になってる今日此の頃。
やだなぁ、きっと死体はこんなもんじゃないんだろうね。
自分はまだ体が元に戻そうと働いてくれてるから良いけど、死体は代謝が停まっちまってるからそのまんま、内出血が蓄積してくだけだもんね。
兄貴の教科書で見た写真が酷かったのなんのって。

人類がいつから死体を埋めるようになったのか知らないが、きっと見たくなかったんだろうな。それとも、忍びなかったのか。
花を添えた人、だか手向けた人、だかいうタイトルの、人類の祖先が墓に花を供えてたっていうことを書いた本が前にあった気がするけど、どうしてそうなったんだろうなぁ。本を読んでないから分からないが。
それまでは、仲間がその辺で死んでても放っておいた訳でしょう。腐ってく過程だって普通に見てたハズなのに。

いつから死体を忌避し、目に入らないようにするようになったのか。
社会性と関係があるのか、高度な知能と関係があるのか。
ていうか、そもそも動物は死体を死体だと認識できているんだろうか。単に寝てるだけだと思ってるのかもしれないな。そういう試みはなされているんだろうか。猿ほどの高等生物でも、死んだ子供を抱いてるとか聞いたことあるけど。

同族に対する愛情が深まる程に、その死体が崩れてく様を見ないようにしていったんなら、矛盾してるようだけども、気持ちは解らないでもないな、と。自分も人間だからなぁ。
海外で熱心にミイラを作ってたのもその為だもんね。
まあ、衛生上の問題でどっちにしろ埋めるか焼くかするようになったと思うけども。

要は、死体を単なる有機物の塊と見なすか、同族の延長線上にあるものだと見なすか、その違いか?
そうなると、まず個(identity)を認識できないといけない訳か。
…いや、社会性が成立してるんなら、同族だと認識できれば個の識別云々はどうでも良さそうだ。
その辺で死んでるのが赤の他人だって、見つければ埋めてやりたくなるもの。
尤も、今の世の中じゃ救急車呼ぶのが普通だが。例えばの話。

もし同族(まず「同族である」という認識が最低条件な訳だが)の死体を見つけたとして、
それが「死んでいる」と認識できる程度の知能があり、
そして以前に死体の辿る過程を見たことがあるという前提だった場合、
死体に対する恐れ、気味の悪さを思い出すと共に、
このままにしておくのは忍びない、という愛情からくる憐憫、
そういった避けたい気持ちと思い遣りの気持ちがない交ぜになって、
その結果として埋めるなりどっかに捨てるなり、自分を含む他者の目に触れないようにすると思うんだ。

…うーん?これ、かなり高度な知能を持ってる生物限定の話だよなぁ。
てか、人間にしか当て嵌まらないんじゃないか。そんな複雑な愛情、他の生物が持ってるかなぁ。
もうこれ以上はタマシイとか宗教とかそっちの話になってくるから、中途半端で切り上げ。。

痣ひとつから話がどこに飛んでったのかマジ不明。
こういう無駄な思考をしてるから時間を浪費するのだよ、自分。