いつかこんな風に、自分の周りにある日常も突然奪われてしまうんだろうか。


疲労感を感じた昨日のYラボからの帰り、運転していた車の中でぼんやりと、そんなことを考えた。

赤信号で停車し、視界の右端で動く物体に反射的に目をやった。中学生らしき私服の2人が、歩道を自転車で進んでいく。前の子はちょちょこと後ろを振り返り、何やら会話をしているらしい。

反対側の歩道では、お揃いのジャージ姿の女子高生の集団が歩いてくる。

横断歩道を渡る親子。前を通り過ぎていく車。


冬の終わりの、眩しいオレンジの西日に照らされる町。

いつもと変わらない風景。


そんな当たり前の日常を送っていた人々が、全てを奪われてしまった。

奪われる、という表現は適切ではないかな。失くした、の方が正しいか。

何もかも失ってしまった。中学生の会話も、高校生も、手を繋いだ親子の絆も、車で帰る家も、その先に待つ愛しい人達も、何もかも。


人間の営みは、こんなにも脆いものなんだと。

缶詰になったYラボのPCで見た映像で、まざまざと思い知った。

いつか。

自分がこうなる、という予想を、誰にも否定はできまい。

それだけ、自然は公正であると言えるのかもしれないな、と思った。

自然を前にする時、人は誰であれ平等だ。そこに一切の差別はない。


青信号に切り替わった。車をスタートさせる。

ラジオは被害情報を繰り返し伝えている。朝に比べて、緊急地震速報での中断は少なくなった。

少し、ボリュームを下げた。自分は思った以上に疲れているらしい。眠気がちらつく。

窓を開けて、外気を取り込んだ。冷気が程良く車内の空気を撹拌し、頭を醒ましてくれる。



偶然、被災地の近くへ行っていた家族は直接の連絡こそ出来ないものの、無事であることは確認できた。

家に居る父と連絡を取り、父や母の実家、親戚も無事であると聞いた。

mixiやメールで友人、知人の無事も知った。

一晩を一緒に明かしたYラボの人達、その家族や親類も大丈夫とのことだ。


自分の日常は、未だ、自分の傍に居てくれるらしい。



無性に泣きたくなったのは、ネットのニュースでタイトルの字面を追っていた時だ。

各国が日本への支援を表明している、という記事を読んだ時、不意に鼻が痛くなった。

こんな国でも、助けてくれるのか、と。


世界はこんなにも優しいのに、どうして戦争なんか起きるんだろうな。

どうしていつまで経っても核を捨てられないんだろうな。


そして、その理由を考えて、無性に情けなくなった。その裏にある諸事情なんて、大概が予想がつく。

そんなことまで安易に想像出来るような、下らない政治があるからなんだろうな。

その政治の下で、自分達は日々眠りにつく。


自然に怯えながら。自然に抱かれながら。