緑青は海を見たことは無いが、それは話に聞く深海を思わせた。
光も届かない海の底。青色の海は次第に澱んで、夜の暗闇が沈殿したように底へ底へと溜まるのだと、緑青の育ての親は言っていた。
海の全ての生あるものは、その闇、大洋の懐へと還る。
丁度、我々森の民が森へと還るように。
今思えば、世間を知らぬ幼子に言い聞かせた、古臭い話だ。だが、緑青はそれを憶えていた。
大方、その時、育ての親が「お前の右の眼は海の色だ」とでも形容したからだろう。
「彼」の視線は緑青を通り過ぎて、隣に座るsigiriをぴたりと捉えた。
視線が外れた途端、金縛りが解けたように、ふっと緑青の力が抜けた。冷や汗をかいている。
「おかえりなさい、sigiri」
その抑揚の無い声が彼の口から発せられたものであることに、緑青はやや遅れて気が付いた。イヤ、抑揚が無いなんてレベルじゃない。限りなく棒読みに近い。
おまけに、彼の表情は一秒も変化が無かった。放心したように虚ろだった。
その全てが、緑青の中で固定化された人形のイメージを掻き立てた。
否、コイツは間違いなく人形だ。緑青は今朝、この男を見た。
息をしていなかった。それを確認した。
「ああ、ただいま。葉月」
応えたsigiriの口調は、今迄で一番優しかった。表情もいつの間にか柔らかくなっている。短く緑青を制止した、ついさっきとは別人だ。
思わず鳥肌が立ちそうになった。イヤ、マジで。
(ハヅキ?)
ぱっと緑青の頭に浮かんだのは、それが神国の人間に近い名前だということ。
気が付いたらその男がすぐ横まで来ていて、緑青は思わず仰け反った。
そんな緑青のオーバーリアクションには目もくれず、sigiriは黙って座ったまま、そのハヅキという男を見上げていた。
「どうした?眠れないか」
優しい声。こんな声がsigiriの口から出たのかと思うと、緑青は信じてもいない神を呪いたくなった。
ハヅキはsigiriの目の前に立ち尽くしたまま、何も言わない。
微動だにしないことが、逆に恐怖だった。
いきなり手を伸ばして締め上げてくるんじゃなかろうか、とか、緑青は無駄な思考ばかりを繰り返す。
きっとこの人形はsigiriの差し金で、何でもない風な演技を見せてこちらを油断させておいて、気が抜けた所をがばっと襲いかかってきて、それを横目で眺めているsigiriは口元に薄ら笑いを浮かべていて……
…云々。
加速度的に混乱を極める緑青の思考を遮断したのは、ハヅキが発したと思われる声だった。
「………たんだ」
最初は聞き取れなかった。何かを喋ってるな、と認識したくらいだ。
意識して聞いて漸く拾えるくらいの、小さな小さな、か細い声だった。
「こわいゆめを、みたんだ…」
一瞬、光るものが空を切って落ちた。何だろう、と思って落ちて来た方向を逆に見上げると、ハヅキの顔があった。
ハヅキは、じっとsigiriを見つめている。0.1秒たりとも目を逸らしていない。sigiriは座っているので、少し顔を俯けて見下ろす形となる。その横に居る緑青のことは、まるで見えていないかのような無視っぷりだ。
ハヅキの両の瞳から、涙が流れていた。
下瞼の受け皿から溢れた涙が、頬の起伏を越え、その分の勢いをつけて滑り落ち、顎から滴となって彼の足元に落ちている。ぽた、ぽた、ぽた、と不揃いなリズムが続く。
泣いているのに、彼の表情には全く変化が無い。さっきと同じ顔で、涙だけが無遠慮に零れている。
自分でも気付かずに、緑青は顔を顰めていた。
人形と言えども、実に気味が悪い。
「…それは、どんな夢だった?」
sigiriが静かに訊くと、ハヅキは躊躇しているようだった。
口を引き結んだまま、じぃ…とsigiriを見つめる。sigiriも見つめ返す。
「こわい、…こわかった……とても」
「うん。どんな夢を見たのか、話してごらん。少しは楽になる」
そこで、ほんの少しだけ、ハヅキの表情が歪んだような気がした。
緑青の錯覚かも知れない。ほんの少し、僅かに唇が震えたような。眉を下げたような。そんな気がした。
「ぼくが、ミツキを、ころしてしまうんだ」
緑青は見ていなかった。ハヅキの方を向いていた。
否、誰かが見ていたとしても、彼の変化を捉えることは出来なかった筈だ。彼は、sigiriは、その感情を決して表に出すことは無かったから。
ただ、その感情はsigiriの精神を確実に蝕んでいく。
今もそうだ。
「……そうか。それは、怖かったな」
いつものように、sigiriは優しく言った。
結果的に、彼の内に押し込められた烈しい激情が暴れ回り、彼自身を傷付ける。
実際に身体に刻まれた古い傷が痛んだが、それすらもsigiriは隠した。
「こわいよ、sigiri。こわい。こわい…」
「大丈夫だよ、怖くない。夢なんだから、大丈夫だ」
膝をついて縋り付いてくるハヅキに、sigiriは幼子をあやすように優しい声を掛ける。
頭を撫でてやり、背中をさする。まだ泣いているようだ。
「…ミツキは、いつもどってくるの?」
「分からないな、それは」
「はやく、あそびたいな…」
「…そうだな」
sigiriの脳裏を掠める映像があった。それは一瞬閃き、次の瞬間には黒に塗り潰された。
彼は全てを諦めたかのように、そして赦すように、ずっと口元に淡い笑みをのせていた。
その姿は慈父のようにも見えた。
「疲れたろう、もうおやすみ。今度は、きっと良い夢を見れる」
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発掘したラフの更に下書き(ラフのラフ、って意味合ってなくないか)が鬱回だらけだったんで、この後暫く鬱話のオンパレードになりそうな予感。わお、精神的に超不健全★(待て
まあ、元々全体像が暗い話だから仕方ない。妙に明るくしても浮くだけだ。と、前に書いた気がする。
葉月登場が前過ぎて、どんな設定で、前回どこまで書いたとか忘れてた。
そろそろNo.と内容をまとめておくべきか…
あ、バレバレだと思うので言うけど夢じゃないよ。ホントに三月を殺したのは葉月。次はそこかな。