吹き付ける風に目を細めた。頬にざらついた感触が張り付き、消える。
細かな砂粒混じりの風は、春の嵐のように生温かな柔らかさを含んでいた。
足元に広がる若い緑の群れが、漣のように地を這い、揺らしていた。
ざあ、という音と同時に、一陣の風が勢い良く吹いてきた。思わず腕を目元まで上げた。
大気の壁が身体にぶつかり、すり抜け、後方へと流れていく。そのまま奔り去るのかと思いきや、風は背後の草叢に円弧を描き、目に見える形でその場に渦巻いた。
背に感じる空気の流れに違和感を抱いて、半ば後ろを振り返る。
と、その渦の中心に、悠然と舞い降りるものがあった。
辺り一面を覆い尽す緑の海にも決して惑うことの無い、漆黒の体躯。
広げられた翼は力強く逞しく、周囲の全てを圧倒する気配を孕んでいる。
獰猛さと静謐とを併せ持つように見える双眸は、宛ら闇夜に覗く猫科の瞳の鋭さを思わせた。
漆黒をその身に纏った、巨きな鷲。
緑の絨毯に肢を降ろすと、優雅に翼を一振りしてから、その背に収めた。
鋭利な視線から逃れるように、前を向いた。目を逸らす直前に、鋼色の虹彩が見えた。
背後からの威圧を感じつつ、前方からの風に抗うようにして前へ踏み出した。焦燥と恐怖が胸を焼き、自身を急き立てる。
背筋に悪寒。蛇のように風がとぐろを巻き、足元から粟立つような感覚を奔らせる。
冷たい手に引かれたかのように、足が止まっていた。冷汗が肌の上を滑り落ちていった。
首だけ動かして後ろを窺うと、やはり黒い影が降り立つ所だった。
全身が黒に染め上げられている所為で、まるで鷲自身の影から生まれ出でたかのように見えた。
風を従えて、鉤爪を持った逞しい肢が地を踏み締める。
しかし、その瞳は何処か不満そうな色を湛えていた。
「畏れずとも良い」
威厳に満ちた低い声が、鷲の口から滑り出た。
驚きに見開いた自分の目と、巨躯の鷲の目が一直線上で結ばれた。
こちらの胸の内を見透かしたかのように、鋼色の硬質な瞳の線が和らぐ。
「そなたの背に集う風を利用させて貰っているだけだ。そなたを襲おうなどとは思っておらぬ。…しかし、どうしたことか。未だに翔べぬようだ」
新たに吹き付ける一陣の風に両翼を乗せて、宙に舞い上がる。が、すぐに肢が地についてしまう。
丁度、人間が肩を竦めるように、その黒鷲は瞼を閉じて頭を屈め、軽く左右に振った。
前進していてくれた方が良い、との黒鷲の言から、自分は風に抗って歩を進めた。
漆黒に濡れた鷲は、暫く背後で翔ぶ試みを繰り返していたようだが、やはり上手くいかなかったらしい。
そうしている内に、目的地に着いてしまった。
猛禽類特有の頑健な嘴の隙間から、苛立ちとも諦めともつかぬ、長く細い溜息が漏れた。
目的の場所には、もう一匹の黒鷲が留まっていた。
何を語る訳でもなく、黙したまま、こちらをじっと窺っている。
自分は振り返り、嘆息した黒鷲に、片腕を差し出した。
黒鷲が自分を見上げる。
「付き合おう」
宣言すると、自然と顔が綻ぶのが分かった。
「もう一度、やってみるといい。翔べるまで、付き合うよ」
ばさり、と力強く羽ばたく漆黒の翼。
止り木を得た鷲が、期待をその瞳に滲ませて跳び上がった。
造作無く腕に摑まると、体躯を傾げ、自分の首元に頭を寄せてきた。
ひんやりとした、肉厚の舌が首筋を撫でる。
恐らくは親しみを込めたのであろうその仕草にも、一瞬の戦慄が走り、すぐに消えた。
視線を感じて、振り返る。
もう一匹の黒鷲が、何か言いたげにこちらを見つめていた。
「―――来い!」
4枚の黒い翼が、宙を舞った。
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とにかく鷲の黒さと、首を舐められた感触が印象的だった夢オチ。
遂に自分ではなく、他人を飛ばさなくするようになったらしい。嫌がらせか。