お気に入りの席が空いていたことにほくそ笑み、真っ直ぐにそちらへ向かう。
鞄を置いて財布だけ取り出すと、早速レジへ向かった。注文は既に決まっている。
前の女性が注文をしている間、空腹からレジ横にあるショーケースへと身体が動いた。見たことの無いサンドイッチが3つ。惹かれるが、挟まれたパンからはみ出した大きなトマトに幻滅する。
店員が待っている気配を無視して、更に横へと視線をずらした。
2種類のクロワッサンに、季節もののスイーツ。馴染みのシナモンロールにも食指が動くが、結局元から決めていたものだけを注文した。
「ハニー・オレンジ・ラテを、トールサイズで」
釣り銭を受け取り、熟れた果実と見紛うばかりの赤いランプの下へ向かう。
心地良いコーヒーの香りが店内に漂っている。前の女性が、エスプレッソショットの濃い芳香を纏ってこちらへやってきた。すれ違いざま、ほんの一瞬だけ、その味わい深い香りに陶酔する。
店員の手でラテがカップに注がれ、クリームが乗り、細かなチップが振り撒かれ、蓋がされるまでを楽しげに見つめ、やがて渡された注文通りの品を、礼と共に受け取った。
いつもより少し大きなそのカップに、内心満足を覚えながら席につく。
テーブルはチェス盤を思わせた。冷たくない、木の温もりが感じられる。
駒を置くように、カップを置いた。
必要なものはいつも同じだ。メモ帳、ペン、辞書に腕時計。相変わらずてんとう虫は正確に飛んでいる。
その後で待ち侘びたように蓋を開けた。
一度携帯を確認してから、テーブルの上で手を組み、その上に顎を載せて、じっとカップの中身を見やった。
口元が緩んでしまうのは、この際お構いナシだ。どうしたって、心の紐が緩めば口元も緩む。
形の良い白いクリームの上に、くすんだオレンジの細かな粒が散らばっている。
カップを小さく揺すると、海に浮かんだ地盤の無い島のように、クリームはぷかぷかと揺れた。
鼻を近付ければ、柑橘系の爽やかな匂いがするりと胸の内に入り込んでくる。それだけで、とても幸せな気分がした。
まるでそっと接吻するかのように、盛られたクリームに唇を寄せた。
唇に触れるクリームはうっすら冷たく、しかしその奥から流れ込んでくるラテは熱い程だ。舌を少々火傷した。
また暫くカップを眺め、右のすぐ脇にある窓の向こうへと目をやる。
ホームの電光掲示板が見える。三方を壁に囲まれているのと、これがこの席のポイントだ。次に来る電車の行き先が分かる。夜風の冷たいホームで待つ必要が無い。
今夜はどのくらいまで居ようか、と自問する。開いたメモ帳はまだ真っ白のままだ。
カップに目を戻すと、クリームの山が平らになりかけていた。
もう一度、鼻を近付けて匂いを嗅いでみる。
やっぱり幸せになれる匂いがして、また口元が緩んだ。