今日一日、それを思えばこそ踏ん張りがついたというものだ。
朝見た星座占いは3位、なかなかの順位だ。にも関わらず電車は急病人が文字通り折り重なり(実際どうだか知らないが)、10分遅れての終点到着。たかが10分に気を張るなどせせこましい、と言われるかもしれないが、その10分に妥協することを許さないのが今の日本社会だ。哀しい哉。
その10分の埋め合わせの為に、新宿の街を駆ける。
機械で生じたロスを埋めるのは結局肉体しかないのかもしれない、などとぼんやり考えながら。
次発の列車でも間に合うのに何故走るのか、と問われれば、自身の行為に意味が無くなるからだと答えるしかない。そこまでなれば、如何に怠惰な性格なれど自身の肉体をして奔らせよう。
ここで間に合わなければ、一本早いバスに乗った意味が無い。
延いては、そのバスに乗る為に15分早起きした意味が無い。
どこに落ち着こうが、10分15分そこらの時間に振り回されている事実は変わらないようで少々悔しいが、これが現実なのだから致し方無い。人は常に現実に生きているものだ。
現実に在る以上、そいつと付き合わなければならない。―――話が逸れた。
無事に発車のベルが鳴る前に目的の列車へ駆け込み、息を整える。全身から汗が吹き出てくる。
達成感、安堵感と共に、微かな期待がまた胸に湧く。そう、少し先の未来にある、些細な楽しみだ。
ここで頑張った自分への御褒美に。
泳動しても何も出なかった自分への慰みに。
雑用ばかり片付ける自分への励ましに。
黒い液体を求めて脇道へ足が向きかけた自分への戒めに。
―――帰りのバスから降りた瞬間、身体は思った以上に軽かった。
思い浮かべれば、嗅ぎ慣れたその匂いさえも鼻腔をくすぐるような心地がする。ここ暫く嗅いでいない、あの独特の香辛料を含んだ匂い。少しばかり辛いのは否めないが、決して嫌いな訳ではない。
妄想に縋らずとも、あれが逃げる訳もないのだ。
にやけた顔をそのままに、ぽつぽつと頼りなく外灯の灯る道を軽やかに歩いていく。
ああ、今日の月は太っちょだ。少し前が細い三日月だったからな。
ますます小さくなった星を探しながら、白い息を吐きながら歩き、そして、
玄関の扉を開けた。
―――それで、期待が外れたなんてことになってたりする訳だ。
前にも書きましたけどね、自分はこのパターンが信じらんないくらい嫌いだったりする訳だ。
「明日はカレーだからね」。この一言に、人がどんだけ期待をかけると思ってんだい?
泳動で挫けそうになる心の支えであり、無料でコーヒー飲みたい欲求を堪える為に、どんだけ夕飯のカレーに希望を抱いてたと思ってんのか。
狭量なことは大いに認める、だがしかし俺の今日一日の心を返してくれと言いたい。
そんな言葉が素直なままに出てくる筈も無く、帰って台所を覗いた瞬間にマジ切れしました。
何故かって、もうここまで書けば明白だが敢えて書こう。
夕飯がカレーじゃ無かったからさ。
そりゃあね、色々と理由もあったんでしょうよ。時間が無かったとか、材料が無かったとか。
しかしですな、だったら何で「明日はカレーだ」なんて放言を吐いたのか。実行しない限り、全てはその宣言に責任がある訳だ。事情はどうあれ、夕飯の食卓にカレーは無い。
期待させといてその期待を挫く、最低最悪のパターンだと思うんだがどうか。
だから、言うなってのさ。
「明日は○○だからね」だの何だの、期待させるようなことをさ。
その言葉さえ無ければ、その呪縛さえ無ければ。
せめて、その宣言に「出来るか分からないけど」とか「時間があれば」をつけていてくれれば。
自分は過剰な期待をかけることもせずに、淡々と一日を終えて、いつもの夕飯に満足出来ていたっていうのに。飯にありつけるだけで嬉しい、ただその喜びだけを感じることが出来たのに。
今日一日の一喜一憂の救いをそこに求めていたのに、その救いが元から無かったんだもんな。
こういう時、自分の心はざっくり抉られて、血が流れる心地がする。
期待が過剰だってことも解ってるし、作れない事情があったであろうことも簡単に想像はつくのに、その非を責め立てずには居られない。
まるで駄々っ子のように、請い、願い、喚く。
何で、カレーじゃない。
約束が違う。守れないなら、何であんなことを言った。期待させるようなことを言うな。
期待させといて。
いつもは何に対しても期待なんかしないのに、こればっかりは相手が悪い。
家族だと、どうにも警戒が緩むらしい。だからこそ、裏切られた時の撥ねっ返りも一入だ。
そんな訳で、自分は「明日の御飯は○○だからね」っていうフレーズが大嫌いだ。
この先一生誰かに言われたくないし、誰かに言いたくもない。