1つのチョコの話をしよう。
そのチョコレートは、高級ではないにしろ、少しは名の知れたパティスリーで、とある駆け出しのパティシエによって作られた。
ハート型の生地に、丁寧にチョコレートがコーティングされていて、表面は艶々と光っている。
五線譜を模したホワイトチョコの上には、金銀のアラザンが散りばめられている。
触ればぱきり、と簡単に折れてしまいそうな薄い板チョコが添えられていて、切り取ったように店のロゴがプリントされている。
派手ではないが、シンプルの良さがある。
作ったパティシエは、そう思っていた。
自分が作ったチョコがショーケースに並ぶ、それだけで心躍った。
そのチョコは、あっという間に完売、とはいかなくとも、そこそこ順調に売れていった。
―――シンプルさがいいな。
―――無難な感じじゃないの。
理由はそれぞれであっても、やってくる客の10人に1人くらいは、そのチョコを買っていった。
もうそろそろ閉店、という所で、遂にそのチョコは売り切れた。
それを確認して、パティシエは喜んだ。嬉しかったし、ほっとした。
自分の作ったチョコが、あちこちで、大切な人に贈られているのだろうなぁ―――。
そんな風に、想いを馳せた。
さて、買われたそのチョコはどうなったか。
チョコの1つは、とある女性の膝の上に載せられていた。箱に詰められたまま、まだ出されてもいない。
出される前に、いらないと言われてしまった。
そんな訳で、彼女は今、箱を抱えて座り込んだまま、さめざめと泣いている。
自分で食べる気にもならなかった。暫く泣いてから、途方に暮れたように箱を見つめた。
―――誰か、食べてくれないかな。
最後の涙の一粒を拭った彼女の肩に、遠慮がちな手のひらが触れた。
振り向くと、彼女より随分若く見える青年がそこに居た。
風邪をひきますよ、と青年は優しく言った。
後ろ手に開けた扉から、暖かな空気とコーヒーの香りが漂ってくる。
小さな喫茶店の前で泣いていたことに、そこで初めて気が付いて、彼女はちょっと赤面した。
―――温かいお飲み物でも、いかがですか。
黒いエプロンをつけた青年が、にこっと笑った。
扉を閉めると、外の冷気が一緒に滑り込んできた。
カラン、とベルが鳴ったのを聞きつけて、マスターがコーヒーの良い匂いを連れて、カウンター前までやってくる。
それから、呟いた。なんだ、お前だけか、と。
青年は箱をカウンターに載せて、困ったように笑った。
―――お店の前で泣いてて、ごめんなさい、って。
サービスで出す筈だったコーヒーを啜りながら、マスターは頷いた。
どうするんだ、と訊かれて、どうしましょうか、と青年は返す。
すると、カウンター席に座っていた老人が、その箱に目をやった。
中身は何かね、と青年に尋ねる。
一体どうしてそんな箱を持って、お嬢さんは外で泣いていたんだね。
きっとチョコレートですよ、と青年が箱を開けながら言う。
今日はバレンタインですからね、と付け加えて。
中身は、五線譜に音符が踊るチョコレート・ケーキ。
ランプの柔らかい光を受けて、アラザンの一粒ひとつぶがきらきらと輝いている。
ほほぉ、と老人は眩しそうに目を細めて、チョコをうっとりと眺めた。
―――これを、譲ってもらう訳にはいかんかね。
老人が言うと、青年は構いませんよ、と箱を差し出した。
勘定を済ませている間に、マスターは興味あり気に、お好きなんですか、と尋ねた。
私じゃあない、と老人は口元を綻ばせた。
目尻に皺を作り、妻が好きでね、と楽しそうに語った。
老人の妻は、チョコが好きだった。
そして彼女は、2年前にこの世を去った。
すっかりと夜が更けた道を、老人は箱を片手に抱えて、歩いていく。
歩きながら、思い出している。在りし日の、老人が愛した人との思い出を。
チョコレート・ケーキを買って帰ると、若い娘のようにはしゃいで、喜んだ。
おいしいね、とフォークを口に運ぶたび、笑顔がこぼれた。
彼女との甘い記憶が、溶け出していく。
うっすらと瞳に涙が滲んで、老人は夜空を見上げた。朧な月が二重に重なって見えた。
抱えた箱の中のチョコレートが溶け出してしまうんじゃないかと、妙なことを心配した。
持ち帰った所で、一緒に食べる人も居ない。
今はもう、独りなのだ。
帰る家に明かりが灯っているのを老人が見付けるのは、もう少し後のことになる。
「おじいちゃん!」
玄関の扉を開けるなり、小さな女の子が飛び出してきた。続いて、亡き妻によく似た人物が、ひょいっと顔を覗かせる。
―――お父さん、随分遅かったのね。
言ってから、2人で示し合わせたように、くすっと小さく笑った。
目を丸くしている間に、2人から小包が差し出される。
おじいちゃん、これあげる。
赤いリボンできちんとラッピングされているその中身は、ハート型のクッキーだった。
ちょっといびつな形も混じっているのは、孫娘の作品だろうか。
包みを受け取ると、いつもありがとう、と老人の娘が照れ臭そうに微笑んだ。
孫娘は、老人の手にしている箱にすぐに気が付いた。
なあにそれ、と訊いてくる彼女に、クッキーをくれたお礼だよ、と答える。
中身を見てから、わぁ、と歓声を上げた。
―――チョコレート・ケーキは好きかな?
大好き、と言うが早いが、箱を持ってリビングの方へ行ってしまった。
部屋の向こうで、ねえ、見てみて、と父親に自慢する声が聞こえてくる。
行ってしまった後で、老人は娘と顔を見合わせて、そして、笑った。
大切な人へ、ハッピー・バレンタイン。
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なんか、最後のフレーズはどっかで聞いたことがあるような無いような。
久し振りに、イベント関連でImgを更新。いつもやりたいんですが、中々その日の内にといかなくて困る。
やっぱこういうのは、当日upしないと意味無くなってしまうからね。
即興で作った所為で色々とグダグダなのは気にしない方向で。
アラザンとか知らなかったし。調べたよ。多分友人に教わったけど、忘れてた。
ケーキは、ザッハトルテのような雰囲気を想像して頂けると有り難い。