「…お前がそう望むなら、もう暫くここに居るといい。考える時間が必要だろう」
***は静かにそう言って、部屋を出て行った。扉の閉まる音がした。
出て行ったのを確認した途端、堰を切ったように双眸から涙の粒がぽたぽたと手元に落ちた。それでも、何とか嗚咽が唇から漏れるのだけは堪えた。口を引き結んで、鼻から息を吸うのは苦しかった。
声を上げて、泣き叫びたい。この痛みを、大気が震える程に周囲に撒き散らしてやりたい。
それが出来ないのは皮肉にも、他でもない彼らとの約束。
想いを向ける方向が見付からなくて、緑青は母親と逸れた幼い子供のように途方に暮れた。
絶望的とさえ思える孤独感が、鮮やかなデジャヴのように彼の身を包み込んだ。
ぶつけようのない怒りは、すぐに温度の低い悲しみに変えられてしまう。強く握り締めた両手の拳が震えるのは、怒りなのかそれとも悲しみの冷たさからなのか、緑青にもわからなかった。
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
そんなこと、ある筈がない。
あの人の強さは、尋常じゃない。その強さを、いつも尊敬と憧れの眼差しで見てた。
いつかあんな風になりたいって、仲間と一緒に話してた。
皆、気の良い連中だった。皆、その背に重たい荷物を背負って生きていた。
だからこそ、辛い時も苦しい時も、皆と助け合って乗り越えてきた。
その仲間達が、あんなに強かったあの人が、死んだ?
信じられる訳ない。そんなの、ウソに決まってる。
だからお願いだ、誰か嘘だと言って。
緑青は必死に、頭の中で否定を繰り返した。
useの言葉を思い出してはそれを否定し、そして***の言葉を思い返す。そこでまた絶望に囚われる。
何も、事実を確認した訳じゃない。そんな虚言は頭から否定してしまえばそれでいい。
けれど、頭の中で否定こそすれ、胸の奥底ではどうしても否定出来なかった。
昨日の晩に、空を見た。嫌な予感がしていた。
useの言葉を聞いて何も言い返せなかったのは、その予感が的中したという恐怖も少なからずあったからだ。
「嘘だ…」
小さく掠れた声で呟いて、緑青は毛布に顔を埋めた。
森の木々が、夜風にさわさわと揺れている。森が何かを囁いてる。でも、聞き取れない。
孤独に身を寄せて、緑青は祈り続けた。
* * *
「vermillion、ちょっといいか」
ノックして扉越しに呼び掛けると、「はい」という礼儀正しい返事が返ってきた。
ドアを開けると、彼は窓際の椅子に腰掛けていた。立とうとした所を片手で制し、もう片方の手で静かに扉を閉めた。vermillionが瞬きを一つ。
「どうかされましたか?」
「…ああ、ちょっとな」
そのまま彼の傍へ行き、椅子の横に膝をついて彼の顔を見上げ、***は静かに切り出した。
「vermillion。…暫く、あいつには近付くな」
瞬きを2つ。鮮やかなオレンジ色の瞳が、瞼の内に見え隠れする。
「あいつ、とは、緑青さんのこと、ですか?」
「そうだ。あいつの世話は俺がやっておく。お前はなるべく、あいつの視界に入るな」
「何故、と訊いても宜しいでしょうか。私が、何かいけないことをしたのでしょうか?」
俄かに表情を曇らせるvermillionに、***は首を横に振った。
「違う。大丈夫だ、お前の所為じゃない」
「なら、何故ですか。緑青さんに、何か―――」
「vermillion」
名前を呼ばれて、彼は続けようとしていた口を閉じた。沈黙が部屋に木霊する。
ややあってから、謝罪の言葉が部屋の中に、悲しげに響いた。
「…申し訳、ありません」
違う。彼にこんなことを言わせたいんじゃない。
***はもう一度、首を横に振った。否定の意味ではなく、自分の思考を振り払う為に。
知っている。vermillionが、ずっと淋しい思いをしてきたことを。
この2年間、自分は彼に殆ど構ってこなかった。彼をこの家に閉じ込め、もう一人の同居人と会わせることもなく、独りぼっちで居させてきたのだ。彼からすればそれは「遺命」に他ならないのだろうが、自分ならその命令を取り消すことも出来た筈だった。
2年前、あのような形で従うべき主人を失った彼にとって、孤独はどんなに辛かったろう。
useはそんな彼を気遣って頻繁に現れるようだが、彼自身も映像体だと限度がある、と言っていた。
だからこそ、突然現れた緑青という人物に惹かれたのだろう。
漸く見付けた、「友人」として向き合える存在。
それを彼から奪ってしまうことは、自分としても心苦しい。
どうして、運命はこうも悪い方向へと巡るのだろう。
「…忘れるな。あいつは、お前の敵なんだ。訳あってあいつは今、かなり混乱してる。ふとした弾みでお前を殺すようなことにもなるかもしれない」
オレンジ色の目が、自分の左目を覗き込んでいる。瞳の奥にある何かを探しているかのように。
やり切れない思いで、***はそっと視線を外した。
「……わかりました」
* * *
あれ、「お前はあいつの敵」発言って何処でやるんだ?そもそも教えるんだっけ。
因みに、「瞳」には色が無い(=黒色)。…のはわかってるけど、つい瞳って書いちゃうんだよな。
文中で瞳が何色だとか書いてる時は、虹彩の色だと思ってもらえれば。
あ、でも機械なら気にすること無いか。