胸倉を掴んだ手が小刻みに震えている。言い知れぬ深い悲しみと共に、その震動が伝わってきた。

彼の怒りそのものを表しているかのようだった。可哀想に、彼の心は傷だらけだ。

傷を負った心が怒り狂って、その鋭い牙で俺に齧り付こうとしているような気がした。


「―――ごめん」


緑青は漸く、それだけの言葉を絞り出した。他に言葉が見つからなかった。


「ごめん。…本当に、ごめんよ」


言い訳はしない。自分に言えるのはこれだけだ。緑青は唇を噛んで言葉を切った。

ややあってから、伝わってくる震動がぴたりと止んだ。その代わりに放たれた色濃い負の感情の重さに、緑青は思わず顔を顰めた。ずん、と身体が圧迫されるような錯覚を覚える。呼吸が上手く出来ない。


…苦しい。酷い眩暈がする。

これが、彼がいつも向き合っていた感情なのか?


無言のプレッシャーが、じわじわと緑青の身体を蝕んでいく。

心臓の音がやけに大きく聴こえた。これは、自分の心臓か?それとも彼の心臓か?

脳味噌が焼かれたように熱い。心は脳か?心が焼かれているのか。彼の問いが頭をぐるぐると回った。

涙が溢れ出して止まらなかった。歯を食い縛って堪えようとするが、それでも意思に反して生温い水滴が目尻から零れ、ぽろぽろと頬を伝っていく。鼻水まで出てきた。


壊れてしまいそうだった。

滅茶苦茶に、それこそ脳味噌がぐちゃぐちゃになる程迄に頭を掻き毟りたかった。イメージが黒に汚く塗り潰されていった。

何処へ行っても、漂っているのは強烈で乱暴な悲愴感。あまりに無力な自分がそこに居る。

逃げ出したいのに、手にも足にも頑丈な枷と鎖がついている。

それに気付いた時、真っ黒い絶望に丸ごと喰われてしまうのだ。

頭の上から、足の先まですっぽりと覆い尽されて。






彼の手が離れたのがその後どのくらい経ってからだったのか、よく憶えていない。

すぐに解放された気もするし、1時間以上ずっとそうしていたような気もする。


***が掴んでいた腕を床に落とすと、ふっと楽になった。身体中から力が抜けて、思わず後ろに倒れそうになったのを両腕をついて支えた。その腕が震える。


バカ、しっかりしろ。


自分を叱咤すると、涙と鼻水を袖で適当に拭って、緑青は今一度正面から***を見据えた。

雪のような***の白い髪が、暗い部屋の中に差す月光で仄かな光を帯びている。その下にある筈の淡い緑色の光は、今はこちらからは見ることが出来ない。

***はそのまま、身動き一つしなかった。


一瞬、凄まじい殺気が放たれた。

緑青は思わず目を閉じて覚悟を決めたが、意外にも禍々しいその気配はすぐに引っ込んだ。

彼も混乱しているのだろう。彼は持っているものが多過ぎるから。



緑青は、辛抱強く待った。

何度もこの場から逃げ出したい衝動に駆られたが、全ては自分がやったことなのだ。

その自分が目を背けてはいけない。殺されるのだって覚悟の上だ。それだけの責任がある。


彼の大切なものを、自分は壊してしまった。否、壊したのだ。

それは彼にとって、かけがえの無いものだったのに。何に代えても守りたかったものなのに。



…ふと、後ろで静かに眠るvermillionのことを想った。

そうだ。彼はもう、二度と目覚めない。それを思うと、また泣けてきた。



*          *          *



今度こそ、ゆっくりおやすみ。

大丈夫だよ、***はもうこれ以上傷付かない。



*          *          *



一度大きく息を吐いてから、ゆっくりと肩の力を抜いた。涙の気配は感じられない。

息子とさえ思っていた彼の死に、涙も出ないか。自嘲してから、そういえばいつから泣いてないだろうと記憶を辿る。

ほんの少し辿った所で、止めた。どうせ行き着く場所は分かっている。

その頃にはもう、大分冷静さを取り戻していた。


目の前の男の、真っ直ぐな視線が感じられる。その意思の強さが窺えた。

彼は許しを請うている訳ではない。自分が彼のやったことに対して制裁を与えるのであれば、彼は甘んじて受けるだろう。たとえそれが命を奪うことになったとしても。

本当に、彼は何に対しても必死だ。

こんな時になって、彼という一人の人間の強さを再評価することになるとは。


「ありがとう」


労いも込めてそう言うと、彼の顔に動揺の色が浮かんだ。予想だにしていなかったのだろう。

色々な想いが堪え切れなくなったのか、彼はそのまま、俯いて嗚咽を漏らし始めた。

そんな彼の率直な感情表現を見ていると、こちらもどこか素直になれそうな気がするから不思議なものだ。


もう一度、大きく息を吸って、吐く。

胸の辺りに、ぽっかりと穴が開いたようだった。無意識に手を胸に当てていた。

心臓の鼓動を感じる。…また生き残ってしまったことに、小さく悲観した。




そっと、目を閉じた。

ともすれば暴れ出しそうな感情全てを瞼の内側へと押し込めて、***は立った。


(ありがとう)


たった、この一言を。あの男にも言ってやりたかった。

本当に、あいつはいつも嵐の様に唐突に現れて―――唐突に、消えてしまった。



*          *          *


こう真面目な場面書いてると無性に笑えてくるのは何故だ。