↑を読んでいて、自分自身に思い当たる部分があった。
「この声に関してはどうお考えですか?」に着目した。「これはもう本当に初歩的なレトリックというか。言語学では『一般化して述べる』っていうのがあるんですけど」と切り出した。
(中略)
「ただ大人のコミュニケーションとして、やっぱり自分の責任で言わなきゃいけない時っていうのはいっぱいありますので。
こういったレトリックを使っていい場合と、このようなガチガチの対談のような対話型の会話ですので。あまり国民の声とか、第三者を介入させるっていうのは、よろしくない論法かと思いますね」
↑ヤフコメ
こういう声が上がっていますよ、とかは、よく学校や職場でも使われている感じ。ほかの誰かがこう言ってたよ、みんなこうしてるよ、とか。でも実体がなくて、そう言ってる本人が、相手を従わせたいだけ。どこかで甘えがあるんだなと思う。私は、自分の考えとして、ちゃんと相手に伝えられる人が、信頼できるかなって思います。
政治家に問いかけをするならば責任感のある意見を出す人でないと、誰と話をしても話が上滑りして終わるだけになる。
【感想】
石丸さん山崎さんはさて置き、終始、自分のことを顧みて思い当たる節があった。
「責任」って形がない(概念になるの?)から、私は実体や実感がぼんやりしている。仕事で失敗して事後処理をして……私はあの時「責任を取った」ことになるんだろうか?
「責任」→「事後処理をした」が上手く関連付けられない。
私に子供がいて、その子が粗相してその処理をしたら「責任を果たした」と思えるかもしれない。
↑
そう思うのはなぜか?
我が子っていう主観と客観の中間みたいな視点を経由するからかな?
そもそも、当記事になぜ引っかかったかと言えば、
- 私自身が話すことに実体を感じられないから
→信頼関係を築けない - 誰と話をしても話が上滑りして終わるだけ
→責任感を持ててない
つまり、他人と話していても満足感が得られず、どうにかしたいと悩んでいるからか。
私は自分の実体験を話しているつもりでも、ピンと来てない(ズレている感じがする)ってことは、実際は、他人の意見を、自分の意見のつもりで言っているのかな?
あるいは、
自分の経験や感想が薄くて(記憶にあまり定着していなくて)、自分自身でも腹落ちしきれてないから?←これもあり得る。