今日と昨日と一昨日に読んだもの。

 

今日:ヨギー・イン・ザ・ボックス(金原ひとみ)

 

先日知人の言葉の余波で購入した群像4月号から。

もうあれから1ヶ月近く経っているのに、ほとんど手をつけなかった(文字通り)のはいつも通りでそのことに思いを致したくすらない、からもうしない。

本を本当に(目で見ると躊躇いたくなる表現)読んでいないので、こういう自然に感じる会話を文字で見ると少し面食ってしまう。三井田のように思考が応答している人物がいたら親しみを感じて仲良くなりたいと思うだろうけれど、自分実況は須く面白くなりそうな気もするし、結局こういうことは他人には共有されないから、面白さに気づくことも親しくなる前にはなく、結局仲良くなる機会も訪れないのかもしれない。そもそも、鳥後の発言として書かれている(「人と....うっすらしたもの」)ような、一般に存在する理解や悟り(?)のような境地とは無縁のところで、私からとしては他人に対した際の防御を適度に解除できないことにより、そして私側としては自分が想像できる範囲にも想像できない範囲にも存在しているだろう色んな「足りなさ」により、個人に根ざした話を聞けることがほとんどない。ので他人には共有されないから、ではなく、私が共有される人間ではないから、と言い直しておこう。こう思って少し傷つきかけた自尊心が、ロバストネスを発揮して「いやお互い様の可能性もある」と囁いてくれたので、結果ここに卑下はない。

あとは、「治療薬のない流行病にかかった」という言葉で想起されそうなレベル感で(ような、と言うにはCOVID-19下にあってもあまりに自分には地に足のつかない表現だった)、毎日「時間がない」を主観的に経験している身としては、小説に書かれた発言であっても時間を自分で管理する云々には惨めに感じさせられるのだけれど、じゃあ共感に慰められるのか、そういう側面もある、と言い返したところで、この前、原作(?)も読まずに読んだ「100分 de 名著 『存在と時間』」の世人の概念を思い出して「えーすみません....」となった。でもこのすみませんは「本当に悪いと思っていないだろ!」と叱られるやつで、この解説の感想も忘れない内に残しておきたい。

あとは(2回目、構造を指定しない接続詞が思いつかない、のは接続詞の定義のせい?)、自分のことを、そこそこ理解して欲しいと思う相手に、けど、と、けれど、を使い分けていることがあるが、それはそれなりに意味があることかもしれないと思った。

 

長い。眠い。昨日と一昨日は、村上春樹の『女のいない男たち』を読んだけれど、それはまた今度にしよう。