塾長奮闘日記

塾長奮闘日記

宮城県の片田舎で経営している塾長の日々の歩みを赤裸々(?)に綴っていきます。未来へ向かって前進前進!!

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消費税は、名称は「消費」税であっても、実際には消費者と関係のない取引においても徴集されるのだから、取引高税と呼ぶべきものであり、付加価値税であり、外形標準課税でもある。  あるモデルを設定してみよう。 素材メーカーが粗利率を売価の30%とって100円で完成品メーカーに対して出荷した素材を、商品に仕上げた完成品メーカーが卸商社に300円で売るとする。(その場合の完成品メーカーの粗利率は66.7%)  それを卸商社が小売店に400円で売るとする。(卸商社の粗利率は25%)それを小売店が600円でユーザーに売るとする。(小売店の粗利率は33.3%) この例では、素材メーカーから100円で出荷された素材をユーザーは600円で買うことになる。  次にこれを取引の各段階で、それぞれの段階での粗利率は同じでありながら、粗利益に対して10%の消費税を乗せて川上から川下に商品が売られていくとしてみよう。  まず、素材メーカーは、粗利率の1割に相当する「売価の3%」を乗せて完成品メーカーに売るのだから、103円で完成品メーカーはその素材を買うことになる。  それで、完成品メーカーは卸商社に対していくらで売るのかということになると、その売価の(66.7+6.7)%を粗利益として得なければいけないから、 103÷(100-73.4)≒387 となって、およそ387円で卸商社が買うことになる。  それをまた卸は、粗利益率を自社の売価の25%でなく、それに消費税を乗せた27.5%でもって、小売店に販売するのだから、小売店は534円で買うことになる。 それを小売店は30%ではなく33%の粗利率で売ることになるのだから、小売価格は797円になる。  すると、結局、消費税がなければ600円で買えた商品を、10%の消費税がかかったばっかりに、ユーザーはそれを800円もの高額で買うことになるのである。  ただし、あくまでもこれはモデルであって、実際には、流通がもっと単純化されていたり、流通の各段階での企業努力で消費税を吸収したりすることもあるかも知れないので、常にこうなるというわけではない。  しかし、10%の消費税というものは、最終的なユーザーの購買価格が、消費税がない場合に比べて決して10%アップですむのではないということは、明白であり確実なことであるということ。

他人の成功を素直に祝福できない。
自分が幸せであるなら、他人の幸せもよろこんであげられるはずなのに。

自分を傷つけた人を許せない。
人を恨んでも、心がすさむばかりで、何の益もないことは分かっているのに。

「頭では分かっているのに、できない」ということがある。


しかし、それは本当にできないことなのかなって思うこともある。


自分の判断で「やらない」だけなのではないだろうか。


特殊な能力を要求されること、たとえば、


「百メートルを十秒台で走る」


「歌手になって、レコード大賞をとる」


などは、どんなにがんばったって、到底できるわけがない。


しかし、「人の幸せをよろこぶ」「人の過ちを許す」というのは、そういうたぐいのものとは違って、現実的に不可能なことではない。


本気でやろうと思えば、できることだと思う。



「できない」のではなく、「やらない」ってだけなのかも。


まず、「頭では分かっているのに」などと、思考と感情が分離しているような言い訳をするのをやめなきゃいけないのかな。



本当に分かっているなら、やっているはずだしね。


やらないのは、つまり、「分かっていない」ということ。

妬みたいから、妬んでいるのだ。
怒りたいから、怒っているのだ。
自分の心に潜むみにくさを認めることからはじめなければいいのに。


自分が努力するよりも、他人をこきおろしたほうが、姑息な優越感がえられる。



自分で楽なほう、得だと思うほうを選んでいる。それが自分の価値観ということ。


「自分で選んでいる」という自覚をもってはじめて、ほかの選択もできるようになる。

自分が心の底から「他人の幸せを祝福したほうが、自分にとっても幸せなことだ」と思えば、できる。


本気で「他人の過ちを許したほうが、自分の心も安らかになれる」と思えば、できる。


今は分かっていないが、きっと分かるときがくる。


未熟な自分を受け入れつつ、少しでも理想に近づけるよう努力しなきゃな。。

陰口を言われたら陰口を言われたからといって、



気にすることはないって昔言われたのをふと思い出した。



嫌われるのは、自分ではなくて、陰口を言ったほうだって。



もっとまわりの人を信用しようと思う。

生きていくということは、そもそも面倒なものなんだと思う。



友人や親戚との付き合いも、恋愛も、勉強も、仕事も、結婚も、子育ても、何もかも面倒くさい。


それがつまり、生きがいであり、張り合いなんじゃないかな。


「面倒くさいのが当たり前」と思えば、思い通りにならないからといっていら立ったり気を落としたり


することはないと思うし。

何もかもがとんとん拍子に運べば、それがはたして幸せなんだろうか。

面倒くさいのが当たり前ってことなんじゃないのかな?


そこから一つでも二つでも喜びや充足をえられれば儲けもの。

「ないもの」ばかりを数えて嘆いてばかりいる人には、


神さまは、さらに大切なものを奪うという試練を与える。


「いま、あるもの」に感謝する心を芽生えさせるために。


「ないもの」ばかりを数えてもきりがないが、同じように


「あるもの」だっていくらでも数え上げられる。


あれもある。これもある。失ってはじめて気づくのではなく、


あるうちにそのありがたみをかみしめよう。


失うことに怯えるのではなく、一度でも与えられた幸運に


手を合わせよう。幸せとは、そういうものなんだと思うよ。





今日の俺に言い聞かせる独り言を許してください。

「○○さえ手に入れたら、幸せになれるのに」



それは幻想だ。


たとえ手に入れたとしても、幸せにはなれない。


せいぜい、つかの間の虚栄心がえられるだけ。


そして、またぞろ新たな不満と欲求が生まれるだろう。


いま幸せだと思えなければ、何を手に入れても満足はできない。


幸せとは、空虚な心の穴を埋めるためのものではない。


いまの自分を土台として、少しずつ積み上げていくものだと思う。



ブログ連投になりました。書き溜めですがお許しを。

「どうせ」は禁句


「どうせ私は社会的地位が低いから、皆からバカにされているのだ」と言ってはいけない。


社会の底辺を支えるような仕事をしている人でも、人の役に立ち、立派な生き方をしている人はたくさんいる。



「どうせ私は貧しいから、幸せにはなれないのだ」と言ってはいけない。


貧しくても、清く明るく生き、誰からも慕われている人はたくさんいる。


そういう人たちと自分との違いをどう説明する。


さらに自分を卑下して、「不幸である理由」を探すのか。


自分を情けないと思うこと自体が情けないんだ。


「どうせ私は○○だから」と自分を卑下するのは、同じ立場の人々を侮辱することになる。


とても失礼な発言だ。どのような境遇にあっても、幸せな人は幸せだし、不幸な人は不幸。


自分の境遇をどのように受け入れるかという問題なんだ。


不幸な人が不幸である理由は、「どうせ自分は不幸だとひがんでいるから」この一言につきる。

「あのとき、ああすればよかった」と後悔しても、そのときは気づかなかったのだから仕方がない。


以前は分からなかったことが、いまは分かる。


進歩したことをよろこぶべきなんだって今になって思う。


はじめから何もかも分かっている人はいないんだよなぁ。

後悔したことは、二度と繰り返さない。それでいい。


そうやって人は成長していくんじゃないかな。