生きていればいろんなことあるしいろんな人にあったりしますよね。
まぁありがたくないことにもありがたいことにも、やたらめったら出くわしたりするもんで。
それに多かれ少なかれ、意識的にせよ無意識的にせよ、良くも悪くも、影響受けてしまう。
本当は自分はこうじゃないんだ、自分を隠さなきゃ生きてられない、とか、正直言って僕は思ってたとこがあるんですよね。もうホントについ最近、22、23才くらいまではそんなトゲトゲシイやつでしたね。
しかし20代も半ばに差し掛かり、少し変われたのかな、と思うようにもなりました。
なんというか、そういう影響を感じ取りながら生きていけるって、実はなかなか貴重なことなんじゃないかって。
だって、それはちゃんと直接的・間接的に僕に思うところを発信してくれる人がいるってことですもんね。僕もそれに気づいて自分とその人を向き合わせようとはしていたってことだし。
でも若さゆえか頑固さゆえか、大体最後には自分のほうが!って言おうとして対立しちゃうんだよなぁ。笑
対立させている場は主に僕の心の中でだけなので、表面的な対立はほとんどなかったですけどね。そして最後にはいつも気づいてしまうんです。自分のほうが正しいとか優れているとか、全然言えないし、そんなこと言うような自信がそもそもないと。
それでも自分が大切にしているもの、一生懸命取り組んでいるものに対しては、人よりも突き進めて考えているという自負だけはあるので、それを守りたかったのでしょうね。
ちなみに最近誕生日を迎えて26になったのですが、このくらいの年齢になってやっと、なんというか、大人になったのかな、と。
つまるところ、「守ること」の意味が他人と比較・対立させることである必要がないことに気づいたのです。少なくとも僕の守りたいものを、僕が守るということに関しては。
意見が一致しないとき、分かり合えないねって突き放してしまうのではなく、その人の意見も一理あると思って心に留めておく。聞き流すのではなくしっかりと留めておくんです。少なくとも人のコアの部分に近いような考えには、必ずすごいとか素晴らしいとか思える部分ってあるはずだと信じているので、それに困ることはないです。
以前よりも積極的に人のことを知りたいとか認めようとか思うようになったといいますか、たぶん人が好きになってきたんだと思うんです。それに、目線が今までよりも一歩二歩くらい後ろからも物事を見られるようになってきたというか。
そうしたら、仮に相手が僕を批判したり否定するようなことを言っても、真摯に受け止める分の遊びが内面にできたのかな、と。
守りたいものと他の意見や考え方を、内面で向き合わせて、それで自分が、あるいは自分が守りたいものが変わっていけるなら、って感じです。
常に真ん中に立っていろんな視点をもてるように、世界は狭いようで広いようでもあると、それが素晴らしいことだと思い続けていけるように。
これは僕が今まで物理学をしてきたことから学んだことで最も大きなことであり、かつこうありたい、こうあれたら幸せだろうな、と強く思える、今の僕が守りたい大切なものになっています。