3/5日は辛い日だった。

その日まで、別れた元彼女の部下との勤務が重なっていた。日曜日は普段休みだが、その日に限って仕事があった。


辛かった。


彼女が僕との関係を何も気にしていないこと。自分だけ彼女に執着していること。そういうのがやらせなかった。


彼女は僕に仕事のLINEを送ってくる。僕は上司としてそれに返信しなければならない。


3/5日、耐えられなくなって、今辛いんだと打ち明けた。その後思い直して送信を取り消し、気にしないでくれと言った。かしこまりましたと返ってきた。その返信に我慢できなかった。気にしてほしいのに、気にしないでと言った自分にも、実際に全く気にしていない彼女にも、どうしようもなく嫌気がさした。

そして、かしこまりました、という送信を取り消してほしいと送った。

取り消す理由がない、取り消さなければいけないようなことは送っていないと返ってきた。

その後冷静になって、詫びた。

返信は返ってこなかった。


3/7火にいつも通り仕事のLINEをしていた時、彼女の返答が素っ気無いことに気づき、何か怒ってるのかと聞いたら、日曜日のが面倒くさかったと返ってきた。二度とあんな真似をするなと。申し訳ない、話をさせてほしいと送ったら、彼氏がいるからそれは嫌だと返ってきた。


その日の夜は眠れなかった。明け方に食べたものを何度かにわたって吐いた。彼女に嫌われたことが辛かった。彼氏がいるとわかってショックだった。


しかし翌日から、心がふっと軽くなった。あれほどまでに強く心を支配していた彼女への執着が、消えた。顔を合わせて一緒に仕事をしなきゃいけないことは鬱陶しいが、それは気まずいというだけで、耐えられない辛さではもう無くなっていた。


彼女から嫌われたことで執着から解放されたのだと思った。やっと納得して別れることができたと。やっと救われたと。誰かに嫌われることで救われるなんで、なんだかおかしかった。


そして今、特別視について思う。


経験というのは特別視をなくすためにするのだ。

子どもの頃、ホテルに泊まることは特別だった。しかし大人になってなんでもない理由からホテルに泊まって、ホテルに感じていた特別感が消えた。

酒も、煙草も、一人暮らしも、最初は普通ではないことだった。しかし慣れればそれらは普通のことになった。非日常は、成長していくにつれ、日常となっていった。

そういうことを、僕は幾度となく経験してきた。その度に身体と心が世界に馴染んでいった。


そして今回は、職場恋愛に対する特別視が消えたのだ。大きなくくりでの恋愛に対する特別さも幾段薄れた。


特別視の消失は、憧憬の喪失であり、本質への入り口である。


僕はこれから嫌々ながら彼女と働くだろう。あったことはなくならず、彼女に嫌われて、でもそのことで救われて、特別でなくなった想いを抱えて、生きていくだろう。