私自身がよくできた人間ではないし、私より優秀な人はゴマンといるから特に世間に向けて発信したいことはない。
ただ、そんな私でも一つの自慢というのか自負心がある。
というのも、私自身が愚かだから同じように困ってる人や苦しんでる人たちの気持ちを汲み取りやすいのだろうということだ(完全に理解できているわけではないにしろ)。

諺に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というものがある。

それが真ならば私は愚者だし、それならば諺は真である。

言葉にすることで、文字に起こすことで、自分の考えが整理される。

だから、ここに書くのはただのエゴである。

果たして古今東西、随筆がエゴではなかったことなどあっただろうか。知らないが、ブログは自分の書きたいことだけ書くものだろう。

別に有名人でも文筆家でもない私の文章を読む者は基本いないであろうから好き勝手に書かせてもらう。

最近、ふと人と話していて強く再認識したのは、小説家カズオ・イシグロさんの作品「日の名残り」が如何にも「名残っていたなぁ」ということと、よく考えればあのような自然な物語でなおかつそんな大きな事件もなく、あたかも当然のような帰結で、特に驚きはないのに、あんなにも人を惹きつけて感動させることができるというのはまさしく美文と鼻につかない表現と主人公の魅力、そして何よりも底に流れているカズオさん自身の慈愛がそうさせているのではないかということだ。サウナ上がりに水風呂から出て外気浴をしながらふとそんなことをあらためて考えたのだ。

カズオさんがブッカー賞の授与式で「この分断の時代にあって文学はそれを解決する力を持っている」といったことを仰っているのを私はテレビの前で聴きながら心で泣いた。で、そのあとまた芋焼酎を五合飲んだ後に号泣してそれ以来禁酒した。

私は特に恥ずかしいこととも思わないが、いつかは自分で書いた小説を世に放ちたいという夢を持っている。十三歳の時、中学校のホームルーム後に行われた朝の読書タイムで星新一に出会って以来、自分で小説を書くようになった。

もともと子供の時から様々な作品に触れたが、ますます多くの小説に触れるようになり、特に青少年にありがちかもしれないが芥川龍之介と夏目漱石に強く惹かれた。
また、海外文学ではアラン・シリトーの小市民的(それでいてまさに現代人のリアル)作品と、サリンジャーのライ麦畑の文体に衝撃を受けた。

成人してからは佐藤泰志さんの海炭市叙景を読んで何度も泣いた。

紆余曲折(詳細はいつか記載しようかと思う)あったのち、私は特に憧れの小説家や目指すべき生き方は特に定まらなかったが、ただ一つ信念が芽生えた。

この現代社会を含めて過去より人間が引き起こしている悲劇の多くは文学の力によって抑制、あるいは解決し得るという信念だ。

理由その1
文学によって読者に考える力と想像し、共感する力を育む。
他人の立場になって考え、痛みや苦悩を共感できれば孤独な人は少なくなる。社会全体が苦労する人に優しくなれるはずだという考え。

理由その2
人は、言語なしには正確に自分の感情や考えを他人に伝えられない。文学を通じてより多くの語彙と表現を学ぶことで、自身の苦しみやアイデアを他人に正しく伝達してその具体的な内容を伝えることができるようになる。そうなると理由その1に対してもよいフィードバックが発生するはずという考え。

理由その3
インターネットの発達によって、人々は簡単で素早く他人とコミュニケーションを取ることができるようになった。その一方で、特定のコミュニティの人々としかやりとりをしなくなった。自分の耳に良い情報しか仕入れようとしなくなった。
しかし、文学はリアルタイムに読者に対して非難や警鐘を鳴らして敵対心や警戒心を煽らずに物語を通じて主人公たちの人生を疑似体験することで自発的に自省する機会と習慣を与えることができるはずという考え。

以上の三つ。

全部、「はず」なのは私がたまたまそのような影響を文学から受けただけで全ての人に通ずるのかわからないということと、そもそも文学を読んでる人はそういう素養があって、そもそも読まない人になんら影響を与えないのではないかという不安から来る自信の希薄さが生じさせた表現である。

この不安は時々今でも襲ってくるが、ミーハーでもなんでも良いから何か文学作品が世の中で流行になれば、それがきっかけで少しでも誰かの孤独が癒されて、誰かが救われるのなら、その作者が長い時間をかけて苦しんで生み出した作品が価値を発揮すると信じている。