自分らしさってなに?

これ考えることでないと思うのですが、自分らしさなんて言っている時点で誰かに踊らされている!?えっ
 
そう思います。
 
そもそも自分らしさなど探すものでないと思います。
 

よく、「あなたらしくない!」

 

なんて言葉がありますが、その言葉を発する相手の前でのあり方でしかないこともあります。

 

そもそも「あなたらしさ」自体が、果たして身内に対しても同様なのかなどすら分かりません。

 

そして、家庭においても同様に、「あなたらしさ」と言う部分で、本当に「ありたい自分」として振る舞っていたのかすら分かりません。

 

そもそも「あなたらしさ」を求める言葉を発する相手、もしくは、「あなたらしさ」と言う「都合の良い振る舞い」を求められる環境では、安心出来る場所でしか見せないあり方など出来ません。

 

その前に役割によって演じ分けるのが人間です。

 

それは、相撲部屋の親方と、実の息子が入門した場合の関係として例えると分かりやすいかも知れません。

 

相撲でなくとも、よく公私混同されることもあるかも知れませんが、社長と入社したばかりの社長の御子息・御令嬢の場合もあるでしょう。

 

自分らしさなどよりも、自分は何を目指したいのかでしかないのでないかと思います。

 

目指すことにより、それぞれ「自分のあり方」が変わってくるのだと思いますし、そもそも責任と役割、コミュニティーと言うか、身を置いている場所によって変わらなければならないはずです。

 

流石に、社長にもなって自己都合で、取引先との約束をドタキャンするなどあり得ないのは分かるでしょうが、言葉遣いやマナーを知らないでは済まないはずです。

 

「親しい仲にも礼儀あり」と言いますが、「何ではてなマークと理解出来ない人もいらっしゃいます。

 

それとは、関係ありませんが...

 

僕の親の世代での地元の親父に言わせると「僕」なんて言う大人が気持ち悪い、軟弱だと言ってました。

 

確かに「僕」と言うのが、躊躇う時があったので、分からないでもありません。

 

しかし、今現在では、常に「俺」と言うことの方が出来ませんし、「私」「僕」も何故か使い分けに迷って自分と言いがちなのは、「俺」と言う響きが嫌いだったのがあります。

 

育った環境により、「俺」のイメージが成人してからも悪かっただけですキョロキョロ

 

そもそも「俺」と自然に言えていた時は、自分がどうありたいかが明確で、そのあり方でいることに自信のある環境に身を置こうとしていたのだと思います。

 

「自分らしさ」と言うものがあるならば、それは、「何処で」もしくは「誰に対して」どうありたいかが明確で自信に満ち溢れた状態でないのかと思いますウインク

 

それも、ひとつですが...

 

もうひとつは、そうあることが出来なくても、受け入れられる状態なのかなとも思いますが、全部「ポジティブ」に偏りすぎるなと「違和感」も最近感じてしまいます。

 

何故ならば、すべてを含めて自分なのですから「ネガティブ」な自分が自分でないなど言い出したら、それはもう人間らしくないと思います。

 

すべてが「ポジティブ」なだけの人生なんて、薄っぺらいものにしか思えない部分もあります。

 

「ネガティブ」な自分も受け入れられるからこそ、人間に深みが出るのだと思います。

 

いろいろ考えると、「ネガティブ」もしくは「ポジティブ」どちらだけの人間って、何だかすごく無理をしている気もすると感じます。

 

聖人すらも到達出来ない領域に、そもそも人間である以上到達など出来ません。

 

それは、ブッダもイエスも同じだったのだと思います。

 

それが人間だとすれば、今の自分が自分らしいのであるから、あとはどうしたいのか決めるだけだと思いますが、みなさんはどう思いますかうーんはてなマーク