未来を生き抜く必須スキル(個人編)



何も恥ずかしがることはない

 まず初めに、このソーシャルメディア・リテラシーは、これからの未来を生き抜くための必須スキルとなる。これは断言できる。

 映画『ソーシャルネットワーク』のスマッシュヒットも後押しし、にわかに日本でもフェイスブック熱が盛り上がってきた。個人も企業もこぞってフェイスブック対策に追われている。映画の本場、ハリウッドでは、ソーシャルネットワークはアカデミー賞で三冠を達成している。世界では既に6億4000万人に対して、日本ではまだ300万人に満たないフェイスブックであるが、今年の末には1000万人を突破することが固いのではないか。

 ビジネスに生かすにしろ、個人の生活を豊かにするために活用するにしろ、このソーシャルメディアというものは、いくつか注意を要する点がある。

 人間が社会で生活していくために必要な「社会性」というものを我々は小学校に始まり、中学高校大学、そして社会人として学んでいく。同じくビジネスの現場で必要なビジネスマナーや社会人としての生き方は、それこそ毎日の職場で学んでいく。

 デジタルネイティブ、いわんやソーシャルメディアネイティブではない我々にとって、このソーシャルメディアと付き合うための根本的な資質が実は抜け落ちているのだ。誰も攻めることはできない。最近現れた代物なのだから。何も恥ずかしがることはない。ほとんどの人がきちんと身につけているわけではないのだから。

始めに必要なリテラシーは、「アウトプット癖」

 まず、「個人」という視点から、このソーシャルメディアとの付き合い方、つまりソーシャルメディア・リテラシーというものを考えてみたい。

 まず始めに必要なリテラシーは、「アウトプット癖」である。

 大げさな表現をすれば、古来アウトプット、つまり情報発信というものは崇高なものだった。価値あるものを世に発信する。共有するべき知的資産は、限られたものである。未だにほとんどの人の頭の中では、この「良質で限られたもののみがアウトプットされ、共有されるべき」という価値観が根付いている。

 ソーシャルメディア・リテラシーでは、この価値観はまったく逆になる。まず何はともあれアウトプットするのである。まず発信するのである。それが価値あるものかどうかを自らの価値観だけで判断してはいけない。それが価値あるものかどうか。それは受け手が判断するのである。情報流通コストがほぼゼロになり、デジタル情報を蓄積するストレージの利用料も格安になった今、思いついた情報はまずオープンにするのである。

 プライバシーに関わることや、誹謗中傷の類だけは、オープンにすることは避けていただきたい。

 溢れかえる情報の中に埋もれてしまうことに躊躇してはいけない。発信しても誰からの反応もないことを悲しむ必要はない。たとえ些細なことであろうとも、世界中のあらゆるところから、参照可能な状態に情報を作り替えておくことが重要なのである。


 震災後、様々なツイートが日本全国を飛び交った。例えば、こちらprayforjapan.jpには、被災者、震災対応への涙するツイートがまとめられている。このリンクを紹介した筆者のツイートは3000回以上のリツイート(RT)、1000以上の「☆」がつけられた。このツイートの閲覧回数は50万回を超えた模様である。

ほかにも数万を超えるRTがついたツイートもあった。筆者のフォロワー数は2000人を超えた程度であるにもかかわらず、これだけ多くの人に情報を拡散することが可能なのである。アウトプットし続けることで、あなた自身がうねりを作り出すことも可能なのである。

「情報耐性力」を身につける

 「アウトプット癖」が身に付いてくると、続いて人を苦しめるのが他人からの批判である。電子メールに始まるデジタルメディアは基本的に“行間”を表現することが苦手である。何気ないコメントが他人を傷つける場合がよくある。逆に何気ないコメントによって、相手を傷つけることもあるだろう。

 傷つくことなど日常茶飯事だと思わなければならない(傷つけることは日常的にはやりたくないものだ)。

 毎日の通勤電車の中で、中吊り広告を見ている人は多いだろう。週刊誌の広告に踊っている文句は、ほとんどが批判や誹謗中傷である。嘘か本当かわからない、相当辛辣なコメントが並んでいる。多くの人はそれを「有名税」という言葉で片付けてしまい、それほど深刻に受け止めてはいない。

 一方、そうした人もソーシャルメディア上で、赤の他人からたった一言、次のようなコメントをもらった日などは、食事ものどを通らなくなる時がある。

 「あなたの考えは間違っている。○○など調べてみたことがあるのですか? もう少し勉強してから発信してください」

 中吊り広告などに踊っている文句に比べれば、たいしたものではない。しかしたいていの人は、衆目の前(ソーシャルメディア上)で、批判されることに慣れていない。こうした自身への批判のコメントが、「世界中から参照可能なインターネット上に載る」と、それはあたかも「世界中の人が自分を見てあざ笑っているのではないか」という錯覚を生むのである。

「ウェブ人格」を育てるという感覚

 誹謗中傷や、不必要な批判は避けるべきである。しかしながら、アウトプットを続けていくと必ず1度や2度は批判の嵐にさらされることがあるだろう。そのことに極度に落ち込む必要はない。あなたがソーシャルメディア上で発信する情報が、それほど多くの人に見られていないことと同様に、あなたを批判するコメントもそれほど多くの人が見ているわけではないのである。

 ごくまれに、自身は匿名にも関わらず、会ったこともない赤の他人を名指しで酷評するような人が存在するが、そうした人は無視すれば良いのである。

 批判は自身を成長させる肥やしだと思う思考の転換が必要である。そして批判されたとしても、それを苦にせず明日も発信を続けていくという「情報耐性力」が必要なのである。

 ウェブ上で表現されている事柄は、各人の意図のごく一部分である。それを鵜呑みにしてはならないし、批判ばかりしてはならない。ソーシャルメディアやブログの仕組みを活用して、自ら情報発信をした場合、やり玉に挙げられる恐れからインターネットから遠ざかる利用者もいることだろう。しかし、仮に遠ざかったとしても、心ない誰かによってインターネット上で知らぬ間に批判の的となっていることも皆無ではないのだ。

 これからのウェブ社会を生き抜くためには、発信することに対しても、発信されることに対しても耐性を持つようにしなければならない。

フェイスブックやツイッター上で蓄積される情報は、その人にとっては第2の生活空間である。そこで形成されるウェブ上の自分というものは、ある種、新たな人格と言える。ソーシャルメディアを活用することで、ウェブ上に形作られるものを自分の新しい人格「ウェブ人格」として認識し、それを育てる覚悟で接する必要がある。

 元来人は多重人格である。家族の前の自分、友達の前の自分、恋人の前の自分、そして職場での自分。人は知らず知らずに多くの人格を使い分けている。そして当然ながら、ウェブ上で衆目にさらされながら、情報の発信と共有をする自分。それが「ウェブ人格」である。

 この「ウェブ人格」は非常に壊れやすい。脆さがある。羽目を外したことをウェブ人格上に残してしまえば、それはソーシャルメディア上のつながりによって共有される。辛辣な批判のコメントも同じである。一度壊れてしまったウェブ人格を修復するのはなかなかに難しい。普段会うことが少ない人とのコネクションも数多く存在するためだ。

 また、新たにアカウントを作り直すことも非常に労力を要する。生活の根幹をなすようになったソーシャルメディア上のアカウントは、自らの人格の一部であるとの認識で望むべきだろう。

「承認意識」を持った行動

 なにげないRT、ふぅーんと思うと同時に押す「いいね!」ボタン。「これはすごい!見るべき」というコメントともに紹介するリンク。会ったことはないが、暖かいメッセージと共に申請してきたフェイスブックの友達リクエストを承諾する――。

 これらはすべてあなたというウェブ人格が承認したことを意味する。震災直後、ソーシャルメディア上の情報は、新聞や雑誌は言うに及ばず、テレビよりも早く、多様で深い情報が得られるということで注目を集めた。その一方で、ソーシャルメディア上の情報は様々なデマ情報も溢れかえり、まさにソーシャルメディア・リテラシーが高くない利用者は情報に翻弄された場面も多かった。

 ツイッター上では1日1億4000万回を超えるツイートが入力される。日本語だけに限ってみても、3000万回近いツイートが毎日蓄積される。RTやコメントは多くの利用者が評価し合うことによって、風評やデマは訂正され優良な情報のみが共有される(ソーシャルフィルタリング)状態となる。しかし、それには幾ばくかの時間を要する。情報のインプットやRTによる伝搬には、自らの「承認意識」が内包していることを意識しなければならない。

 かといって熟考を重ねてアウトプットしないことは望ましくはない。スピードも重要ではあるが、その自らの行為がソーシャルメディア上の人と人とのつながりによって、短期間に広がっていくこともイメージしなくてはならない。逆に、自分が目にする情報の中にも、そうした承認意識低く伝搬している情報が多々あることを念頭に置いて接する必要がある。

突如やってくる不審なあいさつにも注意

 フェイスブックの友達リクエストも同じである。個人のポリシーにもよるが、実名や様々な個人プロファイル(メールアドレス、電話番号、職歴、現住所など)を公開しているフェイスブックの友達コネクションは、実際に会ったことがある人(もしくは、実際に会ったことがある知り合いが会ったことがある人)のみに限定することが望ましい。

 友達リクエスト詐欺がある。魅力的なプロフィール画像(例えば容姿端麗など)で会ったことがない人から突如、友達リクエストが飛んでくる場合がある。もしあなたが一度承認してしまうと、その主はあなたの友達すべてにリクエストを送る。あなたの友達は、その主があなたの仲の良い人だと勘違いして、次々とリクエストを承諾してしまう。そうすると、瞬く間に数十人の個人情報が流出する結果となる。

 「あいさつ(poke)」ボタンも同じである。あいさつを交わし合うと、一時的に相互の個人プロファイルを友達でなくとも公開する仕組みとなっている。突如やってくる不審なあいさつにも注意が必要である。

 ソーシャルメディアはスピードが重要である。最初に述べたように思い浮かんだ情報は、即座に発信するべきである。それに対する批判の言葉にもめげずに発信は続けるべきである。しかしながら、その1つ1つを承認意識を持って望むこともまた必要なのである。

震災関連情報で信頼度が上昇した

 野村総合研究所が震災直後、2011年3月19日と20日に行ったウェブアンケート調査によると、震災関連の情報に接して、ソーシャルメディアの信頼度が上昇したという回答比率は、13.4%で、NHK(同28.8%)と専門記事などのポータルサイト(17.5%)に次ぐ3番目のメディアとなった模様だ。大学や研究機関、政府、民放のテレビ局、新聞は軒並み信頼度の上昇回答率は10%未満であり、ソーシャルメディアの重要性が増したことがアンケート結果からもうかがえる。

 ただ、残念ながらソーシャルメディアの信頼度が低下したという回答比率もまた9.0%で、低下率でも3位であった。信頼度が最も低下したのは、政府・自治体の情報(同28.9%)で、2番手はフジテレビなどの民放の情報(同13.7%)という結果になっている。

 ソーシャルメディア上の情報は、早く、しかも地理的に日本全土(いや、全世界から)から情報がやってくるために、非常に有益である一方、デマ情報の拡散もあることからもろ刃の剣の性格も持っていると言える。

 テレビであれ、新聞であれ、雑誌であれ、従来のメディアにも「デマ」は存在する。それは誇張だと感じる読者の方もいるだろう。しかしマスメディアに登場する有識者のコメントは主義主張の意見である場合も多く、真実とは残念ながら異なる情報も存在する。ソーシャルメディア上の情報は、従来のメディアよりもその意味での「デマ」率が高い傾向がある。素早く入手できるがゆえに、ソーシャルメディア上の情報は1次情報と認識し、真偽のほどを常に確認する作業を行うべきだろう。

グローバルでの人と人とのつながりを豊かに

 少し高度ではあるが、ツイッターのデマ情報の発信源を突き止める方法を開設しているブログや、淡々と今回の地震に関するデマ・チェーンメールを打ち消すサイトなども存在するため、こちらも是非参考にしていただきたい。

 まだ、ソーシャルメディアを生かし切っていない読者の方は、ここで挙げたポイントを念頭に入れて、ソーシャルメディアを積極活用していただきたい。現時点で最も世界で普及しているソーシャルメディアはフェイスブックである。利用者は実に6億4000万人を超える。全世界200カ国以上に利用者が存在する。これからのグローバル社会の中で、グローバルでの人と人とのつながりを豊かにしてくれるツールが、ソーシャルメディアである。

 ソーシャルメディア・リテラシーはこれからの時代を生き抜く必須スキルとなる。現在の義務教育過程の中で、このリテラシーを教育するプログラムは皆無に近い。現状の教育現場でも教えることができる人は非常に限られている。このソーシャルメディア・リテラシーを身に付けた人とそうでない人の間で、これからの時代を生き抜く力の格差は想像以上に大きくなっていく。

 まずは使い始めていただきたい。年齢を問わず、是非活用していただきたい。