またまたお久しぶりの更新となってしまいました。

色々やることがあって忙しく、なかなか更新できません。

昨日は朝6時30分に出て出勤。ついたらある女医さんと廊下ですれちがい。

「おはようございます」とあいさつすると、今日の午後の仕事がなくなったことを教えてくれました。


教えてもらってラッキーだなーと、外来診察に行ってみると、私の担当する新患さんはキャンセル。

結局全然仕事がない・・。

しかし午後6時から時間外研修を受けなくてはいけない。

「時間つぶせるところありますかね?」と心理士さんに聞くと、美術館の場所を教えてくれました。優しい・・。


結局午前10時から午後5時半まで喫茶店いったり美術館いったりしてヒマつぶし。


まあ、正直仕事がないことはへこむけど、全日勤務も3週目に入りちょっと疲れてたのは事実で、時間外研修まで一日中フルにあったら相当疲れたかも・・。そう考えるとよかったのかなと思いました。


前だったら、仕事がないということがあると、「もうずっとこんなことが続く」と一般化のしすぎに走ってしまったところだけど、特に認知行動療法のダブルカラムをやらなくてもああ、一般化しすぎてるなと気付くことができました。それに給料もらっていて仕事がないというのはある意味ラッキーかも。がつがつと「いい医者」になるためにがんばらず、ほどほどでいいんですよね。


少し考え方が柔軟になったかな・・と思いました。


そして前だったら、「仕事がなかった」という事実にうちのめされて、女医さんや心理士さんに優しくしてもらったことも吹き飛んでしまったのですが、ちゃんといいことにも注目できるようになりました。


私は完璧主義だったので全てうまくいかないと全部ダメと思ってしまうんですよねー。少しは改善されたかな?


それにしても仕事は仕事。個人の希望通りにはまわってくれませんね。昔は精神的に未熟でそういうことがよくわからなかったのかもしれない。

時間外研修にしても、昔なら「評価につながらないような仕事」はすごく嫌で受けなかったと思う。でも「これも給料のうち」と思えるようになりました。


昔の自分は「医者」という仕事をものすごく特別な、自己実現のための(正確にいうなら母親の夢の実現のための)手段だと思っていました。だから仕事でいかに自分が有能であるか評価されることがとても重要でした。でも、仕事って結局はパンのためというのが大人の考え方なのだと最近やっとわかりました。

給料分のことはちゃんとやるし、変に評価されようなどと思わないことが大切なんですね。


うつ病を体験した精神科医の蟻塚先生が「良い仕事をしようなどと思わず、淡々と職場に通い続けることが大切」と書いていたのが目からうろこでしたが、その言葉を忘れないように日々生きたいと思います。


10月からまず週1日全日勤務をはじめた。

昨日一日働いた。疲れきる。

外来業務はほぼ5年ぶり。学生なみの簡単な仕事だったけど、すごくひさしぶりなので緊張しミスを連発した。


その時にふと思う。

昔働いていたときには、ミスするとすごく自分のことを許せなく感じて、自分の人格批判まで発展させていたんだなーと。ミスするたびに自分の劣等感が刺激されて、自己イメージが最悪まで落ちてしまっていた。

昨日は「やってしまった・・」と思いながらも、「まあ、初めてなんだし仕方ないか」と思うことができた。


劣等感が刺激されるというと、すごく自分に自信がないような書き方だが、私の場合は何度も言っているように、「自分は完璧でミスなんて何もない人よりもすぐれた人間でなくてはいけない」という気持ちが強すぎた。突出していたいんだな。だからミスすると、その自己イメージが崩れてしまうのでこたえてしまうんだよね。「フツーでいい」と思うことができなかった。


そしてあまりに完璧主義が強すぎるので、ミスしたことの一つひとつにこだわってしまい、おおざっぱに流していくことができなかった。

でもキャリアを積むということは、できなかったことの一つひとつにこだわりすぎず、どんどん流していってしまうことなんだなーとあらためて気付く。


もうひとつ気付いたことは私はもともと強迫的な人間だが、疲れると強迫がひどくなってしまうんだなーということ。疲れてくると、「考える」力がはたらかなくなり、慣れ親しんだ強迫的なパターンにもどってしまい確認強迫や気遣い強迫が強くなってくる。


昨日の仕事では時間をせかされることが多かった。そういうのに敏感に反応してしまうのも私の特徴のひとつ。

小さいころからあまりにも「急げ」と言われて育ってるので、とてもあせりやすい。交流分析でいうところのドライバーメッセージになってるんだよな。

仕事の場においては皆が自分にCPできつくあたるような気がして、「ごめんなさい」と謝ってばかり。それでもそういう自分を客観的にみれるようになったというのが進歩だろうか。


また上の先生に「言っていることがわかりますか?」と言われたときに、昔ならCPで責められたと思ってすごく傷つくか、怒りを感じるところだったが、この人は事実を確認しているだけなんだなと思うことができた。


全体的には、昔は完璧でありたいとか突出したいとかきちんとした大人でありたいという気持ちが強すぎて、すごく緊張していたんだなーということがわかった。もっとゆるめて、6割で「だめな大人」になっていいんだなと思った。


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ずっとお休みしていました。


実はこのブログのほかに趣味のブログもやっているので、かけもちはむずかしーい。まあ、いい加減主義で。


お仕事は十月から週1日全日勤務、それに慣れたら週2日勤務となりました。

給料は医者としては少ないけど自分のペースでリハビリさせてくれることは本当にありがたい。感謝、感謝です。


ここ何週間か森田療法の本を読むことにはまっていました。

森田療法のすすめ―ノイローゼ克服法/高良 武久
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森田療法や認知行動療法は、うつの極期にある人がやると逆効果で悪くなってしまうから要注意を!

ちょうどリハビリ勤務をはじめようかぐらいの時期の人がよいみたい。

私の場合、カウンセラーから「認知行動療法をやると、あなたの場合『ダメな認知がある私はダメだ』みたいになってしまうからやめたほうがいい」と言われました。

で、交流分析や森田療法を自分なりに勉強していたわけなんだけど・・

森田の考え方がすごく腑に落ちる感じがした。多分、私はこの本でいう「森田神経症」なのだろう。

一連の本によると

神経症の人はいつも気分はほがらかでなければならない」とか「不安はなくならなければいけない」など完璧主義的に考えているから現実との落差がつらくて鬱になりやすいのだということ。

これ、わかるなー。

完璧に鬱が晴れて、いつも気分が晴れやかで、やる気に満ち溢れていて活力いっぱいでいなければいけないと私は思い過ぎだった。

だからそうなれないことで、すぐに自分を責めちゃう。不安など何もない人にならなくてはいけないと思い過ぎだった。

逆説的なのだが、そう考えるほどに不安ってふくらむんだよねー。

それなのになかなかその考えから離れられなかった。

それはなぜかというと、「特別でなければいけない」「凡人であってはいけない」「人よりも多くをなしとげなければいけない」という強い信念のせい。

だから人よりも多く活力があり鬱にも不安にも全くならないで、仕事で成功している人間をめざしてしまう。

普通に不安をかかえながらなんとか生活しているってレベルじゃだめなんだよね。

少し森田療法からはずれてしまうが、これは交流分析でいうところの「存在してはいけない。ただし、特別な人間であるなら存在してよい」という強いメッセージのせい。私の場合、母親が「子どもさえいなければ、離婚できた」と言い続けたために、「母親の期待にこたえない自分であったら存在してはいけないのだ」と強固に思いこんでしまったようだ。

今年4月から、6年ぶりに仕事をはじめることになって、3月の間は不安でどうしようもなかった。けれど「不安なのが当たり前なのだ。6年ぶりなんだもの」と思ったらなぜか落ち着いてきた。

絶好調の状態でなくても自分を許すこと、不安があっても当たり前でなすべきことをやること・・これが大事なんだと、森田の本を読んであらためて実感した。