PSヴィーナスと言うバンドは、ザ・タイガースと同じプロダクションでした。

まだ出始めらしく、ファンも少なくて楽にステージが観られました。

衝撃を受けました。
みんなかっこいい!
みんなハンサムで素敵でした。

曲もビートルズナンバーが多くて、ザ・タイガースに劣らなかったと思います。
その中の一人、トムにTさんは釘付けになりました。
背が高く、すらりとして、マシュルームカットのヘアスタイル。
そう、まるでビートルズのポール・マッカートニーのようでした。
歌もポールの歌が多かったから意識していたと思います。

ステージが終わって、楽屋口に行ってみました。
メンバーが出てきたので、話をしてみました。

Tさんはトムと、私はまだだれがいいと決めかねていて、たまたまいたマークと言う人と話しました。
リーダーでした。

Tさんは、トムに夢中になりました。

これから私達は3年間、トムを追いかける日々が続くのです。

マークは、見かけはリーダーらしく、落ち着いた人でした。

確かリードギターを担当していました。
あまりに落ち着いた人で、16歳の私には大人過ぎました。
私達が、キャッキャしているのを冷静に見ているような人で、本当に大人でした。

そしてもう一人、気になった人、芳夫君♪
ミロのヴィーナスで、ニックネームはミロ!

でもファンは、あまりミロとは呼ばないようで、本名の芳夫君と呼んでいました。

繊細な顔立ちで、憂いを帯び、ちょっとだけジュリーに似ていました。

後に、この芳夫君と交換ノートを交わすことになりました。

あの頃、流行っていました。
ファンの質問に、交換ノートで答えるという、ファンにはたまらない二人だけの秘め事でした。
メンバーは、何冊もノートを抱えていたから大変だったでしょうけど。

Tさんはトム、私は芳夫君と、好きなメンバーが出来て、ジュリーとは別に、私達はお小遣いを貯めては東京に行っていたのです。

そして、アルバイトも始めました。
工場の流れ作業です。

ザ・タイガースは、GSの王者になっていました。
チケットは争奪戦で、地方の私達には、無理でした。
朝一番の電車でも、並んだ順で買うのは、到底無理でした。

今みたいに、ネットやファンクラブで買うのとは違い、並ばなくちゃ買えなかったのです。
また、私達にはファンクラブの存在自体も知りませんでしたから。

何度か、ヴィーナスのステージを観に行くうちにメンバーとは顔馴染みになりました。
そして、ファンとも仲良くなりました。
PSヴィーナスは、この年昭和44年の10月に「青空は泣かない」と言う曲でデビューしました。
私達が最初にステージを観てから4カ月後でした。
このデビュー曲については、メンバー誰一人として納得しませんでした。
要するにGSはロックグループですから、日本の歌謡曲みたいな歌は違和感があるわけです。
「僕のマリー」と同じ理屈です。
しかしながらファンは確実に増えてジャズ喫茶は日増しに一杯になっていきました。
この年は、ファン仲間から聞いたトムの電話番号にかけて個人的に話したりして楽しかったですね。

ウエスタンカーニバルが日劇でやり、私達はそれまでタイガースを観に行っていましたが、もうそのころはヴィーナスを観に行く、に代わっていました。

ヴィーナスは、ピーターズ、ファニーズという三つのバンドでヤングパワースリーと呼ばれ、時々三つのバンドでライブをしていました。
ウエスタンカーニバルも三つのバンドは出演していました。

そして三つのバンドでライブをするときは、ジュリーやショーケンがゲストで出てくることがありました。
神田共立公会堂で、ヤングパワースリーのステージにジュリーがお忍びで来て、ステージに上がったときは狂喜乱舞でした。

余談ですが、この年の10月30日に私はヤングメイツにヴィーナスを観た帰りに日比谷野音にメンバーと向かい、その帰り、日比谷の交差点でジュリーと会ったのです。
過去記事に書きましたのでよろしかったら見てください。

ヴィーナス達は、ジュリーに可愛がられていましたが、GSは下火に向かっていました。

やがて、ヴィーナスも解散と言う厳しい現実が待っていました。

確か、45年の3月に目黒パークレインと言うところで解散しました。

前後して、ピーターズ、ファニーズも解散しました。
私達は悲しくて悲しくて、もうたまりませんでした。
2ヶ月たったある日、ウエスタンカーニバルを日劇に観に行くと、なんとトムがあるバンドにいたのです。

ロックパイロットというバンドでした。

その日はTさんとではなく、ピーターズのファンの子と一緒でした。

あとで分かったのは、ヴィーナスからトム、ピーターズからキー坊、ファニーズからケントの三人が加入したバンドのようでした。

タイガースはまた解散していませんでしたが、解散後ジュリーがショーケンとPYGを作ったように、プロダクションの狙いだったようです。

すぐにTさんに連絡をし、ロックパイロットの事を調べました。


私は、工場の流れ作業のアルバイトを継続していましたが、お小遣いのためで、卒業までの一年間、アルバイトでお金を稼いではロックパイロットを観に東京に行っていました。
沢田研二さんの68歳のお誕生日、6月25日が過ぎました。(追記、この記事は二年前に書いたものを現在に転記したものです)

毎年、感慨深いです。
もう、50年もお祝いしているのですから。
この先も、ずっとお祝い出来たら嬉しいですね~


そして同じ日、もう一人、お誕生日を迎えた人がいます。
その人と私の青春時代の事を少し書いてみようと思いす。

その人、Tさんは、私の中学の同級生です。
一年生で同じクラスになり、仲良くなりました。
彼女は、見かけは小柄で可愛いタイプの女の子で、今はもう死語になっている、いわゆるブリッコでした。
可愛い話し方で、綺麗な言葉で話す人でした。
当然、男の子にはモテました。

私とは正反対で、彼女と歩いている私は、引き立て役でした。
自分を卑下するわけじゃありません、私も彼女を好きでしたから、友達になれて嬉しかったです。

最初の一年間は、クラスの男の子の話題がほとんどで、誰が好き、彼が好き、などと誰もがするようなことで盛り上がっていました。
二年生になり、クラスが違ってしまいましたが、相変わらず仲良くしていました。

そのころ、もう一人の友達が出来ました。
Nさんです。

三人で、それぞれの家に遊びに行ったりと行き来していました。

そんなときです。
週刊誌で見たのか良く覚えていませんが、ザ・タイガースを初めて知ったのです。
二年生の終わりの頃、もしかしたらもう三年生に進級していたかもしれません。
ザ・タイガースのデビューは、1967・2・5ですから。
僕のマリー♪を初めて聴いたのはラジオだったかもしれません。

ジュリーのあの声を初めて聴いたとき、胸がキュンとなりました。
会いたい、見てみたい…

友達二人に、東京に見に行こうと誘いましたが、あっけなく断られました。

時代が時代だったこともありましたが、家庭がきびしかったですから、お小遣いもままならず…

そんなとき、クラスの別な子から、行かない?と声をかけられたのです。
Sさんです。

私と同じようにタイガースのファンになったようで、お小遣いを貯めたので…って誘われました。私も母親に頼み込み、お小遣いを貰って行けることになりました。

地元の駅を始発で行くためには、私の家からは4キロ位あったため、Sさんの家に泊まらせて頂きました。

Sさんと初めて新宿ACBに行きました。
初めてのザ・タイガースを観た日です。
彼女も私も当然ジュリーのファンです。

Sさんとは、中学を卒業するまで何回かタイガースを観に行きましたが、彼女は就職したため会わなくなってしまいました。


私とTさん、Nさんは、それぞれ別な高校に進学しましたが、地元の駅で待ち合わせをしては遊んでいました。
話題は相変わらずタイガース。

Tさんと私はジュリーのファンで、Nさんはトッポのファンでした。
Tさんがジュリーと同じ誕生日であることが、とても羨ましかったです。

ある日、どうしてもタイガースに会いたくてTさんをさそって東京新宿ACBに行きました。

朝の6時頃に着きましたが、すでにファンで一杯でした。
どうにかワンステージを観られましたが、まったくの後ろでした。
そのあとも何度もタイガースを観に行きました。
運が良く昼間のステージを見られるときは時間を潰す必要はあまり無いですが、夜の部になると悲惨でした。
帰りも遅くなる上に、時間を潰すために大変でした。お金もなくデパートは場違いですし今のようにマックやスタバなどはなく、ホント、どうやって時間を潰していたか不思議です。
そして、高校二年になったある日、確かその時は新宿ACBではなくて、別な所だったと思います。

池袋だったか、新宿ニューACBだったか覚えていないのですが。

でも新宿ACBではないことは確かです。

その日の新宿ACBは別なバンドでしたから。

タイガースのステージは、チケットが買えず諦めました。

Tさんと、どちらともなく新宿ACBに足が向いていました。

別なバンド、それは、
PSヴィーナス、と言いました。

私とTさんとの運命のバンドとの出会いでした。
8月30日に東京まで整体を受けに行き、31日、1日と楽でした。

久しぶりに普通に歩け、足を引きずって歩いていたのを忘れることが出来ました。
普通に歩けるってこういうことなんだ。

しかし、2日の朝になんか痛いなぁ~と思いながらも、どうしても出掛けなくちゃならない用事があり、二時間ほど外出しました。

東京往復出来たのだから大丈夫だろうと軽い気持ちで。

帰ったら全く以前のように戻ってしまい途方にくれました。

私の足はやっぱり手術しないと治らないのだろうか。
あんなに喜んだのも束の間、また泣いてしまいました。

悲しくて、やるせなくて、悔しかった。

あんなに整体の院長が頑張って施術してくれたのに…。

仕事の仲間が待ってくれている。
けど、仕事なんかどうでもいい。

普通に生活がしたい。

家の事が出来て、たまには外出して友達と会い美味しいランチを食べたい。

友達と旅行に行きたい。

大好きな京都には二度と行けないのか。

二年前に京都に行った時は、ジュリーのコンサートがらみで一人旅だったけど、楽しかった。

たくさんの関西のジュリ友と会いコンサートも楽しんだ。
例のお好み焼き屋に行き、ジュリーのサインも見た。
あのネギ焼きは本当においしかった。

観光も一人旅だったけど、目一杯行きたいところに行きたくさん歩いた。

坂本龍馬のお墓に念願叶って行けた。
あの坂道はキツかったな。
でも年の割りには丈夫な足腰だと思っていた。

あれから、たった二年しかたってない。

あの頃の足に戻りたい。

戻ることはもう無理なのか。
なんでこんなことになってしまったのか。


9月6日
東京の整体院に電話をしました。
痛みが戻ってしまったこと。
もう一度施術をしてもらいたいこと。

7日に予約が取れました。
本当に気持ちが暗くなってしまいました。

でも落ち込んでいても仕方ない。
たった一回で治るわけがない。

中にはなん十回も通って治ったという人もいるそうです。

根気よく我慢強く、整体をしてもらえばきっとよくなるのではないか、と思い始めました。

私は生来せっかちな性格のため、一回で治ると思い込んでいました。

もちろん軽い筋肉痛なら一回で治る場合もあるらしいですが…。


9月7日
再度東京まで痛い足を引きずって出掛けました。

院長は、もう一度頭から足首まで施術をしてくれました。

そして、右足の膝裏を重点的に筋肉を柔らかくする施術をしてくれました。

普通なら、二回目からは、一時間位らしいですが、二時間びっちり施術をしてくれました。

おかげで、かなり痛みが無くなり、帰りは楽になりました。
しかしいつまで持つか。

まだまだ何度も整体を受けないと私の足の痛みは軽減しないでしょう。

まだ、たった二回です。

でも私は決めました。
痛みと共存していこう。

これが今の私に課せられた出来事なら、必ず乗り越えよう。

いつも、何かしら自分の身に降りかかった出来事は逃げずに乗り越えてきました。
きっとまた出来る。


私には、私を支えてくれる大事な友がいる。
ジュリ友もいる。

ジュリーの事を書いているブログを見ると元気になれる。

そう、私にはジュリーがいる。
70歳になっても頑張って歌ってくれているジュリーがいる。

そして、一番大事な家族がいてくれる。


長い間、半月板損傷の記事、そしてそのあとの整体に行って今の私の状態を書いてきました。

一応、これで終了します。
読んでいただいてありがとうございました。