ジュリーブログですが、私個人の事を書きたいと思います。
これを書いておかないと、私のルーツが分かりません。
私も認知症にならないとはかぎりませんので、残しておきたいと思います。






最近、良く両親の事を思い出す。
父が亡くなって14年目、母は11年目になる。
父は、大正6年、母は大正11年の生まれだった。

父の方から書いていこうと思う。
父は、7人兄弟の上から二番目、次男だった。
男兄弟4人、女は3人だった。

父の実家は農家で、貧乏人の子沢山。

昔は、この辺りの田舎に限らずどこでも同じだとは思いますが、
長男は、跡取りだから家を出るわけには行かず、それ以外の兄弟は、女は好きとか嫌いとかの問題ではなく、親が決めた人と結婚させられ、男は仕事で外に出され、別に家を建てるか、養子に出されたらしい。

父はご多分にもれず、戦争から帰ってきたら母の元にお婿さんにきた。

じつは、母の母、私の祖母が父が戦争から帰って来た父を見初めたらしい。

背が高く、見かけも良く、いい男だったらしい。
確かに若い頃の父は、ハンサムだったと思う。

好きとか嫌いの問題でもなく、ただ家を守るため。
名前を残すため、の結婚であったらしい。

祖母は、後年、私が大人になったとき父を見初めた自分がバカだったと後悔していた。

父は外面はいいが内面が悪かった。
外面がいいため、周りの親類や、近所の人達は父を好い人、と誰もが言った。


仕事は東京に通っていた。
大手工務店の下請け業で、大工の仕事をしていた。
材木を切ったり、左官業をしたり、それなりに手に職を持っていたから収入は良かった。
NHKホールを作った、と言うのが自慢だった。

しかしである。
昔は、給料は振込ではなく手渡しだった。
その給料日、父はいつもの時間には必ずと言っていいほど帰って来ないのである。
どこにいるのか・・・。

地元の駅前の飲み屋にいるのだ。
そう、父はお酒が大好きだったのである。
そして、お酒が入ると人が変わったのである。

東京から、電車に乗り地元駅に着くと駅前にある寿司屋や一杯飲み屋に行ってしまうのだ。
一ヶ月分の生活費を持って・・・。
さすがに丸々使うことはなかったが、、、。
父いわく、生活費はきちんと入れてるから文句あるか!!
と、いう訳である。


日頃は大人しくて、あまり祖母や母、そして私や妹とは口をきいたこともないのに、お酒が入ると、饒舌になり、飲み過ぎると人が変わったように乱暴になったのである。
手が出る暴力ではなくて、言葉の暴力、今で言うモラハラということか。
しつこくなり、ねちっこくなる。


そんな父を、私は大嫌いだった。
子供の頃から、私は父に寄り付かず、軽蔑していた。

お酒を飲んで、日頃のうっぷんを晴らし、翌日は何も覚えていない父が、許せなかった。

父は娘たちに好かれていないのは自分のせいなのに、機嫌を取ろうと、お寿司を買ってきたり、クリスマスケーキを買ってきたりした。

しかしいつもお酒が入っていたから、嫌いだった。

祖母はそんな父を迎えたのは自分だからと私や妹に詫びた。

母は、そんな父をどう思っていたのか。
私は若い頃から血気盛んで、良く母にかみついた。
本当は父に対する不満だったのだが、面と向かって父には言えず母に言って困らせた。

別れればいいのに、と。
母は何も言わす、悲しそうな顔をしていた。

そんなどうしようもない父でも、素面の時は優しかった。
私が子供の頃、まだ小学校に上がる前、私は良く熱を出した。
父はその度に私を背中におんぶし、家から2キロ先の医院まで走ったのである。
夜中でも朝方でも。

それは私はあとになって分かるのだが、両親は私の生まれる前に私の兄と姉を病気で亡くしているのである。
だから私を絶対に病気にさせない、
と言う両親の願いがあった。

小学校に上がると、私は熱も出さなくなり丈夫になった。
相変わらず父は飲んだくれて、母と口喧嘩が絶えなかった。

しかし、私も年頃になり家の事より外に気持ちが向くようになると、両親の喧嘩などどうでも良くなった。

喧嘩するほど仲が良い、と割りきって考えた。

祖母が亡くなり私も妹も結婚して家を出た。
家は両親ふたりだけになった。
だんだん父も歳をとり穏やかになってきたが、お酒はやめられなかったようだ。

定年を迎え、家にいるようになると、やることもなくなり昼間から飲んだりしていた。
良く身体を壊さなかったと思う。
肝臓が丈夫だったのだろう。

私は結婚して10年間外で暮らし、私と夫と息子の三人で実家に帰った。

当時、父は70歳母は65歳で、まだまだ元気だったが私は跡取り娘の長女だった。

いずれは親の面倒を見なくてはならなかったので、早かれ遅かれ実家に入らなくてはならなかったのである。

父は私の息子を可愛がってくれた。
お酒を飲みながら、孫を側に置いて猫可愛がりした。
上野動物園に連れていってやろう、と息子と二人で電車で出掛けたこともあった。
息子の運動会にはお弁当を持って来てくれたこともある。

妹と良く話した。
私たちの子供時代、一度も来なかったのに孫は可愛いんだね〜と。

時がすぎ、相変わらずお酒は大好きな父だった
が、
寄る年波に勝てず
身体にだんだんとガタがきた。

足腰も弱くなり、病院通いも多くなった。

息子も18歳になり、車の免許を取った。
父が病院に行くときは、息子が送り迎えをした
息子の仕事の休みの土曜日に駆り出された。

私はペーパードライバーで、運転が出来ないのである。

息子は文句も言わず、祖父である私の父を良く面倒を見てくれた。


あれは平成17年2月の寒い日だった。
父は熱をだし寝込んでいた。
風邪だろうと思っていたが、念のため病院に連れていった。

即入院、肺炎ではなかったが大事をとって入院させた。
二日目には熱も下がり、肺炎の危機は脱したが
、そうなるともう退院したくなるのが父の悪い癖である。

母を呼び、病院に退院の許可をもらい強引に退院してしまった。
母の項で書くが、母はその時病後で思考能力が衰えていた。
父の強引さに負けてしまった。

私の妹が車に乗せ家にしぶしぶ連れ帰った。


私は今でもあの日の事を鮮明に覚えている。
父を私と妹で支え家に入れた。
父は家を見回し、言葉には出さなかったが、やっぱり家はいいな!と思ったことだろう。

この家は父が大工の仕事を定年してから自分で建てたものである。
60歳からコツコツと自分一人で建てた、自慢の家に帰って来て嬉しかったに違いない。

私たち夫婦と息子は、母屋に住んでいて、両親は敷地に新しく隠居部屋を建て暮らしていた。

台所とトイレはあるがお風呂は私たちの母屋にあるのを使っていた。

あの日、父を家に連れ帰った妹は嫁ぎ先に帰り
私たちも母屋に戻った。

夫婦だけになった家で父は落ち着かなかったらしい。
あとで母に聞くと、お酒の一升瓶が父の目に入ったらしい。
見ると、一升瓶のほとんどはなく、ほんの一口だけが残っていた。

父は熱も下がり気分も良かったのだろう。
その一升瓶に手がのびた。
これしかないなら飲んでもいいだろう、と思ったのかどうかは定かではないが、美味しそうに飲んだそうだ。

母も止めなかった。
大好きなお酒をたった二日間の入院で飲めなかったのである。
父の気持ちを分かっていたから止めなかったのであろう。

だが、しかしそれが仇になろうとは・・・。

翌日、私たち夫婦と息子は仕事に出掛けた。
私は、仕事に行くときは別に両親に挨拶をしにはいかない。
その日もいつも通りに出掛けてしまった。
母は病後とはいえ、食事の支度は出来るし、父は母の作る料理しか食べなかった。
今日からまた、両親は口喧嘩しながらも仲良く暮らしていくのだろう、。
と思っていた。

しかし、
今思えば、退院した翌日くらい様子を見に行けば良かった、と後悔している。

私は仕事中、妹からメールが来ていて変な胸騒ぎがした。

妹は母に仕事中に電話をしたらしい。
その時母は父がまだ寝ている、起きて来ないと言ったそうである。
その時点で、午後は過ぎていた。

私は、父は慣れない入院で寝不足だったのだろうぐらいにしか考えていなかった。

私の仕事は5時が定時で変な胸騒ぎはしたが、普通通り定時まで仕事をしてバスに乗り帰った。
その時点で6時頃である。

両親の家に行くと、母がこたつに入ってウトウトしていた。

寝室を見ると父が寝ていた。
いや、寝ていたのではない。
息をしていなかった。
布団の中で亡くなっていたのである。

あとで、母の項で詳しく書くが、母は少し病気の影響でのんびりな性格になっていた。

父が起きて来ないイコール、死んでいる、とは認識出来なかったのだ。

119に電話して、救急車が来て、亡くなったのを確認して、警察のパトカーが来た。
家での死亡は警察が入る。
家族の一日の行動を聞かれる。

医者が来て、父の身体を調べ、
脳溢血だと思うが、解剖はどうしますか?と聞かれた。
耳から、血が出ていますから脳溢血で間違いないとのことだった。
解剖は、結構です、と断った。
解剖すれば亡くなった時間が推定出来るらしいが、今さらそんなことはどうでも良かった。


父は5センチ位のお酒を飲んで急激に血圧が上がって脳溢血になった。
母いわく、お酒を飲んですぐに寝たらしい。
寝ているうちに頭に血が上ってしまったのか・・・。

まったく死ぬときまでお酒を辞められず、お酒が原因で命を落としたなんて、。

これを幸せと呼ばすになんと言うのだろう。
母や私たち娘に介護の煩わしさもさせずに、コロッと亡くなった。
なんと、子供孝行な・・・。

父が亡くなって、13年が過ぎた。
父の人生はお酒で始まりお酒で終わった。
88歳だった。


戦争に行き、帰ってきたら家は兄の物になり、妹達もすでに嫁に行き、自分の居場所がないときに婿に来てほしいと言われて婿に入った。

生まれつきの口下手で、祖母とも娘達ともうまくいかず、逃げ場はお酒だけだった。

唯一、母とは口喧嘩は多かったが、長年暮らしていくうちにお互いに分かち合い、許しあい歳をとった二人だった。
そう、母が病気になるまでは・・・。

次は母の話しをしたいと思う。