その年の夏、ボクは、個人的な理由で東京の制作会社カノックスを辞め、故郷・鹿児島の制作会社にいた。
そして、その日の夜、自宅に居たボクに、先輩の同僚から、飲みのお誘いの電話がかかってきた。
携帯電話は贅沢品で、個人で持つ人は殆ど居ない時代だったから、その夜、ボクが家に居なかったら、果たしてどうなっていただろうか…。
先輩の誘われるまま宴席に行くと、三島村という村の職員さんたちが飲んでいる席だった。
芋焼酎を飲みながら、すぐに打ち解けて色々な話で盛り上がり、やがて地域振興の話題になった。
聞くと、地元に流刑地伝説のある「俊寛」の銅像を建立し、何か面白いことをしたいのだという。
「俊寛の映画を作れないかと思ってるんですよ。」
ほろ酔い加減だったボクは、その時、とんでもないことを言ってしまった。
映画を撮影するとき、必ずしも現地で撮影するとは限らない、ロケーションが良く撮影が不便でない近場で撮影することだってあり得る。
それじゃあ、全く意味がなくなってしまう。
それに、地域おこしのために映画を日本各地で作っていても、全国で話題になるのはごく僅か。
製作費だけでなく宣伝費にもお金をかけなきゃならないと思う…。
確か、そんなことを言ってしまったのだ。
「外では真似の出来ないことをやれば話題になるし、それ自体が宣伝になると思いますよ」
「何かありますかね?」
「『俊寛』は、歌舞伎の演目にもあるから、例えば、現地の風景を借景に『俊寛』の歌舞伎をやるとか…」
酔った勢いというのは、実に怖い。
「そんなこと出来るんですか?」
と聞かれて、ふと冷静さが戻ってきた。
果たして、そんなこと出来るんだろうか?
「一人だけ、歌舞伎俳優の知り合いがいるので聞いてみます。」
そう言って、その場は切り抜けた。
飲んだ席での話とはいえ、放っておくわけにはいかない。
しばらくして、歌舞伎の役者さんで唯一の知り合いに手紙を書いた。
しかも、事務所ではなく自宅に送った。
年賀状のつもりだったかもしれない。
そして、5月頃だったか、上京する機会があり、歌舞伎役者さんの楽屋を訪ねた。
渋谷シアターコクーンの楽屋だった。
突然の訪問にもかかわらず、快く応対してくださったその人こそ、中村勘三郎(当時は勘九郎)さん。
お久しぶりの挨拶もそこそこに、勘三郎さんがおっしゃった。
「押切さん、例の『俊寛』、面白い!ぜひ、やろうよ!」
実は、この時点で、ボクはその「三島村」に行ったことがなかった。
物語の舞台である硫黄島(イオウトウではなく、イオウジマ)に上陸したことがなかったのである。
とりあえず、村にも話をして、まずご本人に現地を見てもらうことにした。
翌1995年5月、俊寛の銅像の除幕式に勘三郎さんをお招きしたのである。
人口百数十人の小さな島に歌舞伎界を牽引する人気役者やってきたというので、地元は勿論、マスコミも大騒ぎ。
除幕式だけが目的ではでなく、歌舞伎上演の下見も兼ねていたので、僅かな時間を見つけて、海岸を見ながら二人で打合せ。
「ここで、やれそうですか?」
「あの砂浜をそのまま舞台にして、お客さんも砂浜に座って、同じ高さの目線で…」
そんな話をしていたら、写真に撮られていた。
地元の南日本新聞に掲載された写真を、後日購入したのがこの写真である。
「やりたいの。この砂浜で『俊寛』を、ぜひやりたいの。」
取り囲むメディアのカメラを前に、勘三郎さんはまるで駄々っ子のように語った。
一年後の1996年5月、流刑伝説の伝わる砂浜、本物の船に装飾を施した赦免船を海に浮かべ、屋外歌舞伎『俊寛』は、多くの人の協力と尽力のお陰で上演された。





