慈悲がある人
去年受けたスピリチュアルセッションで、そのように言われ、改めて「慈悲」について考えてみました。
慈悲とは・・
仏教で重視する用語であり、苦しみを抜き取って、楽しみを与えてやりたいという心(抜苦与楽)
「慈」は楽しみを与えてやりたいという心・・(与楽(よらく))
「悲」は苦しみを抜いてやりたいという心・・(抜苦(ばっく))
そのような心が私の中にもあるのかと思い、過去を振り返ってみました。
群馬の高校を卒業して東京の臨床検査技師の専門学校に進学したときのこと・・
専門学校は女子のみの専門学校で、全国各地から臨床検査技師を目指した子達が集まっていました。
学校が始まると、皆それぞれに気の合いそうな子と仲良くなり、どんどんグループが作られていきます。
私も話しやすそうな子何人かと集まったのですが・・
クラスの中で、一人で歩けるのか心配になるくらいに細く痩せている子が、教室にひとりでいるのが目に止まり、私から話しかけたのです。
クラスの皆は、表情を作れないほどに痩せている彼女の外見に驚き、そのKちゃんと距離を置いていたのかもしれません。
でも私は、Kちゃんの凛とした佇まいに惹かれ、Kちゃんとすぐに仲良くなり、Kちゃんも私たちのグループに入り、その後一緒に過ごしました。
そして驚いたことに、Kちゃんは、東京在住にもかかわらず、何故か地方組の女子寮に一緒に入っていたのです。
後から、Kちゃんは、お母様と確執があり、家を出て寮に入ったことを聞きました。
寮生活となり、環境を変えたことで、Kちゃんは普通の体系へとみるみる戻っていき、表情も豊かになって、いつも笑顔で元気ハツラツなKちゃんへと変わっていったのです(笑)
その変貌ぶりは、もう別人のようでビックリ
それから、私が専門学校を辞めて、30年近く経ちますが、それからも付き合いは続き、数年前には旦那さんと一緒に子供も連れて四万十にも遊びに来てくれました。
当時と相変わらない彼女の元気な笑顔を見ることが出来て、とても嬉しかったです
当時の想いを思い返してみると、Kちゃんに話しかけたのは、Kちゃんの抱えていた葛藤や苦しみに共感したからだと思います。
ただただ、その葛藤や苦しみに寄り添いたいという想い・・
寄り添うことで、元気になってもらえたら・・・
当時は、そのような想いだったと思います。
その想いを「慈悲」というのでしょうか・・
今思うと、Kちゃんへ向けた想いは、12年前に亡くなった夫へ向けた想いや、一昨年に亡くなった妹へ向けた想いと全く同じ想いであることに気付いたのです。
霊的真理からいえば、目の前の人は、自分を映し出す鏡です
苦しみを抜き取って楽しみを与えたい・・
Kちゃんや、夫や妹へ向けたその想いは、実は自分に向けた想いでした。
自分の心の声は、ずっとずっと、「自分の中にある苦しみを抜き取り、いつも楽しくありたい」と言い続けていたのです
その自分の心を、Kちゃんや夫や妹が繰り返し映し出してくれていたのでした。
今となってようやく気付きました(笑)
「慈悲」から「慈愛」へ
苦しみのない愛と喜びに満ちた世界にしていくには、
自分の中にある苦しみを手放していき、自分が楽しいと思うことを自分に与え、
自分を深く愛することで溢れてくる愛を「慈愛」として広げていくこと
そのような流れが大切だということを、Kちゃんや夫や妹が改めて教えてくれたような気がします