こんにちは

印象美人コンサルタントの村田典子です。

いつもご訪問いただきありがとうございます。


マイ・ストリーで綴った障害者の息子と→⑥ の続きです。


息子は、昭和62年12月24日 この世に生を受けました。

 

 

 

 

 

 


生みの苦しみとは、皆それぞれだとおもいます

37週に入り、『羊水が濁ってきた』『胎児の心音が弱い』、ということで急遽、陣痛促進剤をつかってのお産になりました。

が・・

3日経っても子宮口が2センチしか開かず、4日目に帝王切開で出産。


仮死産で生まれ、すぐに新生児のNICU(新生児集中治療室)、へ
私が息子と面会できたのは、3日後でした。

人口呼吸器、そしてたくさんのチューブをつけられ保育器の中に

耳に聞こえてくるものは、泣き声ではなく

人口呼吸器の乾いた音とモニターの(心拍数、呼吸数をみる)器械の音だけ

先生から、『経過をみていくしか・・』と


私が退院するまでのあいだ、別室から聞こえてくる他所の赤ちゃんの泣き声が
どれほど恨めしく、恨めしく、感じたことか・・
病室にいるのが、悲しくて、切なくて、嫌で嫌でたまりませんでした。

数日後、私だけ退院しました。



お腹にいる時、あれだけ覚悟を決めたはずなのに

実際は・・

街を歩いている時、同じ月齢の赤ちゃんを見かけると、『可愛い』と思うより
『憎らしい』という、感情が沸き起こり、
そんな自分が嫌になったり

どうして私が、どうして私の赤ちゃんだけが、どうして、どうして
と何百回、何千回心の中で叫んだかわかりません。

健常者を産む、ということがこんなにも難しいの、って


いま起きている現実を 『受け入れる』『受け入れなければならない』と
『今を乗り越えなければ、今を』と呪文のように、何度も何度もつぶやいていました。



息子の名前は 『遊』 と名づけました。

今から28年前、『えっ、遊?』
不思議がられました。
『遊』という、漢字を名前に使うことが、珍しかったのでしょう


子供は泣いて、笑って、元気に駆けずり回り、いーーっぱい遊ぶ
その遊ぶことができない、我が息子に
名前だけでも・・『遊』と、母の(私の)想いでした。


毎日、毎日、病院に面会に通いました。
そして、NICUに入院していらっしゃるお子さんのお母さん達とも、徐々に慣れ会話を
するようになってきました。

半年が経ったころです・・


この続きは、また後日


本日も最後までお読みいただきありがとうございました。