人間が自己肯定感を育む最初の場、それはやはり家庭ではないでしょうか。
インドでの10年以上にわたる暮らし―学生生活から、フリーランスのミュージシャン、経営者として、そして結婚生活を通して、このことを実感しました。
コルカタの州立大学にはいろいろな経済状況や階級のクラスメイトがいたので、スラムからシャンデリアにプール付きまで、いろいろなお宅に招待され滞在もしました。
どの家庭でも、インドのお母さんたちは、子どもや自分の夫について誇らしげに話し、人前でも堂々と「うちの子のこういうところが良い」と具体的に褒めていました。
インドのお金持ちの友人宅で居候した際、そのお母さんは友人である息子(40代独身、当時は無職)のことを「とても知識が豊富で優しい子なのよ」と自信満々に話してくれました。その様子は、子どもの存在そのものが尊いというメッセージが感じられ、私にとっては新鮮でした。
一方で、日本の文化には、「愚息」「愚妻」などと家族を謙遜して語る習慣があります。私も、子供時代に実母から他人の前で貶されることが多く、私が失敗した話などをわざわざ大勢の前で披露していました。それが子ども心に深く傷ついた経験があります。
母自身、自己肯定感が低い人で、トップの成績ながら進学を諦め高卒で家庭を支えたことなどが自信のなさにつながっていたと思います。
私が子供時代は絵に習字、ピアノ、合唱、水泳などの習い事で賞を取ったり学級委員に選ばれたり、どれだけ結果を出しても、「他の家のあの子はもっとすごい」「なぜあなたが一番じゃないの?」と比較され、私自身が価値ある存在として見られていないように感じていました。
さまざまなセルフケアや学びと、たくさんの時間を投資して、その経験を乗り越えてきたものの、今でもふと自分を他人と比較してしまう習慣が顔を出すことがあります。
また、日本では、「迷惑をかけない」「人に負担をかけない」という意識が強く、家族間でも助け合うことや支え合うことに遠慮が生まれがちです。
しかし、インドでは「迷惑をかけてはいけない」という感覚はほとんどなく、むしろ家族や周りの人々が助け合うことが当たり前です。インドでは例えば家族の中に無職の人がいたとしても、誰もがその人の存在を当たり前のように受け入れています。仕事をしていない、家にいる人が客人である私の世話を焼いたり話し相手になったり、家の手伝いをしていたり、あるいは全く何もしていなかったりする姿を見て、インドでは「お金を稼ぐ」「役に立つ」ことだけが人の価値を決めるわけではないと感じさせられました。
それは村でも都市でも、どんな経済状況の家庭でも同じで、その人が存在することに価値がある、という考えが自然に根付いているのです。
その人が今のままで価値ある存在だと皆が認め、時にはお互いに迷惑をかけ合うことすらも自然と受け入れています。
こうした家庭での自己肯定感は、そのまま社会にも影響しています。
インド人は、自分に自信を持っており、どこでもセルフィーを撮り、スマホの待ち受け画面に自分の写真を設定するほどです。「自分はかわいくないから」などと言わず、他人と比べることをしません。男女問わず、自分の意見をはっきり言い、相手に遠慮することなく自己表現をします。
インドの家庭や社会を見て感じたのは、完璧でなくても、他人に迷惑をかけることがあっても、他人と比較せず、その人自身をそのまま認めることの大切さ。
日本においても、このような自己肯定感が家族の中から育まれることで、社会全体がもっと多様性と寛容さを受け入れるようになるかもしれません。
