私は自分のことを結構気に入っている
朝井リョウさんの「正欲」を読み終えた。この作品の中には様々な性的指向を持った人が現れ、彼らはその特殊性癖ゆえに他人と上手く交われない。彼らの性的興奮の対象は人間でさえない。だから恋愛にも興味がない。しかし世間は恋愛や結婚をすることを当たり前と信じ、それらをしない者を異物として扱う。異物として見られているくらいならまだマシだが、中には攻撃的な態度さえ取ってくる者も居る。周りがそんな人間ばかりだったらそれは生きづらくもなるだろう。多様性が重視されるようになった今、恋愛や結婚はして当然という考えは既に古いものとなっている、と思いたい。が、現実には恋愛至上主義者も多く、彼らの頭の中はひねもす異性にまつわるあれこれで溢れている。昔から主張してきたが、私は恋愛至上主義の人間が大嫌いだ。恋愛至上主義の人間はさして好きでもない人とも交際する。誰でもいいからとにかく常にパートナーを欲しがる。これは自分一人では何も出来ないからだ。一人では楽しい遊びを見つけられない、一人では自分の機嫌も取れない、一人では寂しさも紛らわせない。だからパートナーを作り、その人に何もかもを決めて貰いたいのである。つまり自分の意思がない人間が恋愛至上主義になるわけだ。だから私は意思のない人間が大嫌いだ、ということになる。村上龍の名作「愛と幻想のファシズム」の主人公トウジは自分の意思を持たない者を弱者と定義している。そして弱者が淘汰された世界こそを理想としている。またトウジはこうも言っている。「奴隷は実に楽だ。主人のいいなりに生きればいい」奴隷とは当然弱者のことだ。私にはトウジの言いたいことがよく理解出来る。村上龍のくだり以前に私が書いたことは、ほとんどトウジの言い分と同じなのだから。ちはみに弱者が淘汰されればいい、などとはさしもの私も思ってはいない。自分の意思がないがために恋人と言う名の主人を作り自分は奴隷に「成り下がっている」人々。なんせ奴隷は楽だから。私なら絶対嫌だね、そんな人生。「正欲」の中にこんな文章が出てくる。田吉と関わっていると、マジョリティというのは何かしら信念がある集団ではないのだと感じる。マジョリティ側に生まれ落ちたゆえ自分自身と向き合う機会は少なく、ただ自分がマジョリティであるということが唯一のアイデンティティとなる。そう考えると、特に信念がない人ほど”自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為”に行き着くというのは、むしろ自然の摂理なのかもしれない。トウジの敵はまさにこのようなマジョリティである。自分というものを持たず、自分自身と向き合うこともせず、そのくせマイノリティを自分たちの理想形に変えよう、などと烏滸がましい思想を持つ連中はあっと言う間にトウジに殺される。マジョリティは強者であり、善マイノリティは弱者であり、悪世の中にはこのおかしな法則が不文律として存在する。多分誰が考えたでもなく、アンコンシャスバイアスとしてこの法則がほとんどの人間の頭の中にインストールされているのだろう。しかし誰もがこの法則のおかしさに気付かない。少なくともマジョリティは絶対気付かない。気付かない以前にこんなことは考えないのだ。自分と向き合う必要のない人間は考えないのだ。この法則に限らず意志を持たないマジョリティたちは何も考えない。好きでもない人間と交際するプライドの欠如。無意識に自ら奴隷に成り下がり思考を放棄する惰性。とりあえず周りに合わせることで自分を主張しない弱さ。しかしこんな奴らも一丁前に、自分の人生は自分の意思で選んできた、なんて言い張るものだから噴飯ものである。それは自分の意思で選んだんじゃなくて、他のマジョリティがしてきたことの模倣でしかない。誰かが作った舗装された道を、ただ歩いてきただけ。私の定義する強者は自分を持つ者である。自分の意思を持つ者、と言ってもいい。私はマイノリティに分類される人間なのだろう。アセクシャル傾向があったり、障害を持っていたりする。しかしマイノリティが弱者などと誰が決めた?少なくとも私は自分が弱い人間だとは思わない。何故なら私は自分の意思を持ち、プライドを持ち、信念を持っている。私は自分が自分であることに自信を持っている。私が私であること、それを強みに思っている。意思のない人間に生まれてこなくて良かった。