武蔵野市境南町

 

 観音院参拝とは別な日に杵築大社へ詣でました。神社ではなくなぜ大社なのでしょうか。

 

出雲大社機関紙 『幽顕』 

 

 私達の御親大神さまは「おおやしろ」と敬仰されます。「杵築の大社」との尊称をもって「出雲さん」と親愛致しました。奈良平安の昔から「大社」と銘記されてきた神社は、出雲大社が唯一でした。大社といえばわが「いづもおおやしろ」であり、御親大神さまのお住居のミヤシロでした。この事も時の流れの中で、この呼称を用いる神社が、出来ました。唯神の信仰に適当とは、考えられません。幾世をかけての先人の祈りを正しく伝えることにならず、今の人達の勝手で、自己流の呼称はかえって、ご神徳を汚すことになると心配します。

 

https://ameblo.jp/nori1948/entry-12616427239.html

 

 

 

 

 

境村杵築大社 『新編武蔵風土記稿』


 年貢地、三段、小名本村にあり。小祠、拝殿二間に三間東に向へり。出雲大社は同国杵築といへる地に鎮座せり。されど土人信仰の余り、此所に勧請せしなるべし。其年月等は詳ならず。村内鎮守、例祭九月二十一日新座郡保谷村寶光院の持なり。

 

 

『境内掲示』

 

 この神社は、杵築大社といい、今から三百五十年程前、徳川三代将軍家光の従兄弟で、家康の二男松平秀康(越前国六十七万石領主、福井北ノ庄城々主)の三男、松平出羽守直政(出雲国松江二十九万石領主松江城々主)が、当所十二町四方を御用屋敷と定め鷹狩りをして遊ばれたところと伝えられております。

 

 

 出雲の殿様、松平出羽守直政公は大変信仰厚く、当屋敷内に徳川幕府の繁栄と、天下泰平を祈願され、出雲の杵築大社(現在の出雲大社)と稲荷様を御創建なされました。

 

 

 承応年間、徳川四代将軍家綱は、玉川上水を築き新田開発を行ったので、当所、松平家屋敷奉行境本ち(馬編に希)馬太夫は長百姓となり、境新田の開拓につとめ、子孫、境本仲右エ門は、境村の名主として村人と共に活躍した。貞享年中、当大社は御上地となり、境村の氏神社として大社様と呼ばれ、崇敬されるようになった。

 

 

 戦後、神社信仰衰微に対する啓蒙的願望と地元商店会の発展を念願して、商売繁昌の神・出雲の美保神社よりえびす様を勧請し、大黒様と共に「恵比寿・大黒」二福神を祀る大社として、地元住民はもとより近隣市町村の人々から広く崇敬をあつめている神社です。

 

 

 境内社に八坂神社・稲荷神社・冨士浅間神社・金毘羅様そして弁天様があり、特に三大祭は盛大に行われます。

 

 

『武蔵野市教育委員会』

 

 この富士山は、明治十四年五月境本村をはじめ近隣二十二町村の丸嘉講の協力により作られ、富士講の講中が富士登山や七富士参りをするさい、先達や講員がこの御山に道中の安全を祈願しました。
 清瀬の富士山神社に次いで三多摩では最大のもので、境本村を中心とした富士信仰の規模の大きさをあらわしています。
丸嘉講は富士信仰の一つで、今から約二百年前赤坂伝馬町の近江屋嘉右エ門がおこし、本市では旧西窪以西の二百人前後の講員を擁し「○内に嘉」を講じるしとする講社です。

 

 

 講社急に秋が闌けて来たようです。せわしい中で、少しずつのブログ書き。アメブロに慣れていないせいか、かなりの写真が欠落していることに気が付きました。時には戻って写真を拾わなくてはなりません。ご迷惑をかけます。早く慣れたいものです。

 

 

 

 

 

三鷹市上連雀

 

 井口院に向かって右手の隣接の杜に新明社が鎮座していました。

 真昼の人気のない神社は、時として墓地よりも怖さを感じることがあります。

 神がすぐ近くにいらっしゃるような気がするのです。

 

 

上連雀村太神宮 『新編武蔵風土記稿』

 

 除地、一段二畝廿歩、小名宿にあり。祠二尺四方。この内へ稲荷をも合せ祭れり。

 上屋九尺四方、拝殿二間に三間東向。神体は束幣の立像にて長一尺余。

 例祭九月廿一日。村内井口院の持なり.

 

 

上連雀神明社 『三鷹市史』

 

 祭神、天照大神。祭礼日9月21日。上連雀地区の鎮守。

 東京都神社年鑑』によると「正徳、連雀新田開発時創立」とあるが、連雀前新田開発時となると寛文年間(1661~1673)の勧請と推測される。

 江戸時代は大神宮と称し井口院が別当寺であった。

 明治四年(1871)村社となり、現在の社殿は昭和五十五年に修理した。

 

 

上連雀神明社 『上連雀神明社氏子崇敬会』

 

 この神社は練馬区関村在住の井口家五代井口八郎右衛門信忠が開発計画をした場所が将軍家の将軍家の茅場となっていた所で刈り取り禁止の禁令が建てられていたため札野と呼ばれていた。その札野の範囲は寛文十年(1670)「御札野新田村々方々へ相渡し申覚候」により大宮前(杉並区)、牟礼、連雀(三鷹市)、関前(武蔵野市)のあたりであった。

 そして八郎右衛門の三男井口権三郎が連雀分家となり、連雀前新田の開発を行い寛文十二年(1672)この地に村社として建立した。以来、当神明社は村民の崇敬の念厚く代々氏子の人達により護持され今日に至っております。

 

 

 

 昨日9月24日は台風が避けてくれたおかげで、野辺送りの時間に日輪の恵みをいただくことができました。一日に感謝します。合掌。