京都大学や同志社大学における入学試験の問題がネット投稿された件に関して。偽計業務妨害の疑いで警察が調査している様だが、定期試験のカンニングで全科目0点と決めるのは大学であり、警察や文部科学省が主体となって犯人探しをするのは間違いだと思う。独立大学法人とは完全に名ばかりである。大学の自治という言葉は形骸化されたのか。本来監視する立場の人達が時代について来れていないのだと思う。

例えば対策として携帯電話を机の上に置かせるという手段を取る大学もある様だが、2台以上持っている人を考えられていない。また携帯電話だけに特化して注意をしているが、カメラ付きのペンやメガネがある事は考えているのだろうか。抜け道なんて沢山ある。最早入試で全てが決まるという根本のシステムを改善すべきではないか。

日本の大学制度では入試が通れば、後の4年間は遊んでいても単位を取って無事卒業ができる。理系の場合はそれに該当しないという言葉も耳にするが、総じて見ればアメリカなどに比べて卒業は簡単なのである。入試が通っただけで4年間を保証している様なもので、就職の新卒採用に関して個性や才能を掴みきれていないのに実際に働く1年前以上に採用し1年間を無駄に保証するというおかしな制度と同じである。実際入った後に何をするのかという方が重要なはずなのに、「入ること」「そのステータスにあること」に重点が置かれるのは目的がずれている。

話を入試に戻すが、以上を解決するためには最低限の学力や知識は検査する必要はあるが、その人が「何をしたいのか」や「どの様にその目的にアプローチするのか」を検査する試験制度にするべきだと思う。アメリカの入試はこの形態に近いが、最低限の学力しか学生に要求していないため大学の講義に際して教員が色々考えて分かって学生に分かってもらおうと努力する。そして目的意識のある人間が集まるので授業が活発化する。ただ教員は教科書を音読して自己満足し、学生はとりあえず出席すればいいという今の日本の現状とは大きく違う。勿論今でも熱心な先生や非常に積極的な学生がいることは忘れてはならない。以上述べた事は良い面だけの様に思えるが、中退する割合が現状に比べて高くなると予想されるのでその人達を受け入れる社会の土壌がなければいけない。その人が選んだ道であれば中退も良いという多様性を受け入れた見方ができる社会であるべきである。

最近企業の採用形態は未だ表面上であるにせよ変わりつつある。入試とはこうあるべきだという凝り固まった思考ではなく、自分の大学はこうゆう人材を受けいれたい、そしてその準備はできているという大学が出てきてもいいのではないか。恐らくそれに名乗りを上げた大学によって全体の制度が変わっていき、社会の価値観をも変えてくれるだろう。

さて次に俗にいう犯人探しである。この言葉をマスコミは使用するが、自分はこの件に関してこの言葉は使うべきではないと考える。自分は今回の当事者が受験者の公平の観点から不合格になるべきと思うが、先に述べたようにあくまで合否を決めるのは警察や文部科学省ではなく大学側である。入試の会場の不備を露呈させたことは将来的に日本の入試制度を考えさせるきっかけとなれば当事者の行為は評価されるべきである。恐らく本人は其の様な高い志を持って行為に及んだとは考え難いが、大学がそう判断すれば入学させるべきである。欧米では悪質なハッカーに厳罰を科す変わりに警察やシステム会社が高額なオファーを出して、彼らのシステムを守る仕事に就かせているケースが珠にある。facebookの創始者マーク・ザッカーバーグもハーバードのシステムの不備を露呈して今やその件に関しても評価を得られている。やったことを一方面から悪だと決めず、違う方面から見ると実は社会のためになっていることもあるのだ。彼らは技術という武器があったため、今回の入試の当事者とは同じレベルで考えるべきではないが、「当事者=悪、大学=被害者」という浅い思考は避けるべきである。

以上新たな地で夢を追う身となった今、自分への戒めの気持ちを込めて述べた。

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