朝は日本語教師、夜は家庭教師をやっている。
そんな私は、世間から「教育者」と呼ばれる所以を十分に持つのかもしれないが、私は教育というものが大嫌いだ。
教え子には、出来れば私が教えたことなど全く無視して、あるいは忘却して生きていってもらいたいと思うほどである。
無責任だろうか?
然り、全くもって無責任極まりない話である。
正直なことを言えば、私が彼らをどこかへと導いたとして、その結末に責任など持ちたくはない。
また、仮にその意志があったとしても、責任の持ちようなど無いではないか。
考えてもみて欲しい。
教師が教えることのみを1から10まで忠実に実行する、従順且つ優秀極まりない「理想的な」学生がいたとしよう。
あなたはその学生を喜んで指導したいと思うだろうか?
彼または彼女の学業上の失敗、あるいは人生における失敗の責任が、全てその行動を指南した教師へと帰されるとしたら。
教え導くという営為が完璧に機能し得るという前提のもとでは、教育者には厳格な無謬性が要求されるであろう。
そして、仮に全ての責めを負う覚悟を教師が有していたとしても、実際の苦難を味わうのは教え子なのである。
教育者に出来るのは矢の如く批判を浴びる所までで、人生に対する責任はその当事者にしか負うことが出来ない。
無論、教育者の無謬性などという前提は幻想に過ぎない。
教える側も教わる側も、程度の差こそあれ、その事実は暗黙理に了解している。
したがって、教師の言うことには従いつつも、その結果もたらされる不幸は学習者自身が責任を持って始末し、教師に対して非難を向けてはならぬという予定調和が成立することになる。
そこで、一つの疑問が生じる。
教師の無謬性が担保されないのだとすれば、学生が教師の言に従う所以はどこにあるのか?
逆に、教師は如何なる権威の根拠を持って、生徒に対して従順を要求し得るのか?
そこに私は教育という営為の歪さを見るのである。
無謬性の責任を免除された教育者が、しかしそれでも何がしかの権威をかざして、学生の精神を矯正しようと試みる図は、少なくとも私にとって醜悪極まりないものに感じられる。
ゆえに、私は声を大にして言いたい。
教育者の言うことなど当てにするなと。
君が私に従い、その結果失敗したとして、君は私を心ゆくまで詰ることは出来るし、殺すことだって不可能ではない。
ただ、背負ってしまった苦難を肩代わりさせることだけは出来ないのだ。
役に立つと感じたものだけ、自分の責任で選んで持って行きなさい、と。
厳しい要求である。
でも、事実なのだから仕方がない。
少なくとも、私のように欠陥だらけの教育者は、学生を鋳型に嵌めようとすべきではないだろう。
にもかかわらず、世の教育者の言うことは、
「この方法が正しい」
「我が校は優れた人間を育成する」
といった惹句ばかりである。
皆、よほど無謬性に自信があるのだろうか。
あるいは、任せておけと言いながら、「どんな人間にも過ちはある」というクリシェを最後の逃げ場にするつもりなのだろうか。
いずれにしても、好きになれない。
何度でも言おう、教育など大嫌いだ。
