のら犬なのら(笑) U^ェ^U -5ページ目

プレゼント

$のら犬なのら(笑) U^ェ^U-anpan-man




その人の持ってる空気や、色や、

言葉の肌ざわりや、気づかいや、

なんともいえない雰囲気って、

その人にしかできない。

その人でしかない。


ぼくには、たくさんの、その人がいて、

大好きな、大好きな、その人がいて、

その人と過ごす時間がずっと、

ずっとずっと続けばいいのになあと思いながら、

何度も眠りについて、

何度も眠りについて、

どんなにたくさんの朝を迎えても、

自分が変わってしまうかもしれないと思っても、

その人は、やっぱり、その人のままでいてくれて。

ぼくは胸のうちで、その人の名前を、

きっと、何度も、何度も、

呼んでいます。


その人が「いてくれる」だけでも、

ぼくは、こうして生きてて、

よかったなあって思う。


どんなことになったって、

その人は、変わらない。


ぼくの人生には、そんな、たくさんの、

その人がいます。



たしかに「いる」。

いつも、いつも、いてくれる。

なにかを「する」ことも、すごいことだけれど

「いる」って、すごい。

なにもしなくたって、

それだけで、すごい。


だから

なにかを「する」こと

なにかが「できる」ことは

たしかに「いる」ことへの

プレゼントなのかもしれない。




ぼくは、きっと

たくさんの、その人の名前を、

これからも、ずっと、

ずっとずっと、

呼び続けていくのでしょう。


どんなことでも

$のら犬なのら(笑) U^ェ^U-風有



いつもいつでも
どんなことでも、その人にとっては
たのしいことにしか見えませんでした。

ぼくが社会にでてすぐのころ
いっしょに飲みに行って
その人がヘンな歌をうたうので(笑)
お店から追いだされて(笑)
朝まで公園のベンチでねていました(笑)

その人が、だいすきなあんパンを食べているときも
だいすきなハイライトを吸っているときも
それはそれはおいしそうでした。

のら犬に、なにかをいっしょうけんめい説いているような
このブログのトップの写真ですが
その人は、人になにかを説くということが
いちどもありませんでした。

たのしい話以外は、決してなにも語らない人でした。

ぼくは、そんなあなたの、背中を見てきました。

ずっとずっと、ぼくの先輩であり、先生でした。

どんなにつらいときでも
その人が弱音をはいたところを
ぼくはとうとう見ることができませんでした。

もうけっこうおじいちゃんになったので
その人の弱音をいちどだけ聞かせてほしいなと
思っていたのですが
それはとうとうかないませんでした。

いつも、どんなことでもたのしんで
おだやかに笑っていることが
ぼくは、人のなかで
いちばんカッコイイことだと思っていました。
だからこのブログのトップにそんな写真があれば
いつでもどんなことがあっても
だいじょうぶだと思っていました。

けさ、天国へいって
でも、その人は、こちらとすこしも変わらずに
雲をめくってみたりキョロキョロしながら
ほんのすこしも変わらずに
あるいてゆくんだと思います。

そしてまた会ったときには
「ずいぶんおそかったよね」と
笑いながら
話しかけてくれるんだと思います。

色は空

去年、僕が最初に書いたブログは、

亡くなった人のことから始まりました。

今年もそうなってしまったのですが、

やっぱり僕は、後ろを向いて、後ろを向いて生きたい。

ブログという言葉の語感は、

なんとなく備忘録という言葉に似ている。

そんな気がします。





今日、というか、もう昨日になりますけれども、

亡くなられた市川團十郎さんの辞世の句を

海老蔵さんが披露されていました。



色は空  空は色との  時なき世へ






つい先日、おとといあたりでしょうか、

僕の友達が脚本を手掛けたある映画の中で、

女優の香川京子さんが、とてもいいことを言っていて、

そのことにものすごく共感してしまいました。

それは、溝口健二監督が教えてくれた、

「反射してください。反射してますか?」

ということ。自分の台詞がない場面でも、

常に周りの人物に反応してください、ということで、

その言葉が、女優としての自分に、一番大きなものになった。

だから黒澤明監督の、登場する女性にとって難しい映画でも

演じることができた。それは、反射していたからだ。

…そういうことをおっしゃっていました。

その、反射という言葉が、

色であり、空であるように、

僕は感じていたのです。


これが、第一の伏線です。





色即是空  空即是色


これは、般若心経のなかでも

僕がいちばん好きな言葉です。

もっと言えば、

色不異空  空不異色  色即是空  空即是色


色は空に異ならず、空は色に異ならず、

色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり。


僕は人間として、「人」の「間」と書く存在として、

この言葉ほど、いろんなものの「間」にいる

人間をよく表した言葉はないと思っています。

空と大地の間にいる。人と人との間にいる。

私が人間ではなく、私と万象との間にいる、

それが、人間。

そして、僕は、僕の生き方として、

いつも、「間」にいることを大切にしたいと願っています。

そこにしか、僕は、いない。


ちなみに、般若心経の解釈についてはいろいろあると思いますが、

今回、團十郎さんの言葉を聞いて、いろいろ当たっていたら、

こんな素晴らしいサイトに巡り会いました。


http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-390.htm

感謝とともに、ご紹介させていただきます。


これが、第二の伏線です。





團十郎さんの辞世の句を聞いて、

あぁ、なんて美しい言葉なんだろう、

そう思いました。

こんなに美しい言葉を、久しぶりに聞いたと思いました。

そして、僕もこんな言葉とともに

旅立てる人になりたいなと、そう思いました。

しかし、この句を読めば読むほど、

まてよ? という思いがしたのです。


色は空  空は色との  時なき世へ


どうして 「との」 なのだろう。

そして僕は、この句は、単なる

「色」と「空」との二律の句ではないなと感じたのです。


もし、「時なき世へ」に、

込められた、大きな想いがあるとするならば。

時なき世が、単に團十郎さんが向かう所ではなく、

これから生きていく僕たちが

向かう所であるとするならば。

もし、「時」と「世」が、

「色」と「空」の、

もうひとまわり大きな相似形であるとするならば。

「時」が私、「世」が万象であるとするならば。



それは、これから生きていく者たちに遺された

本当に「生きるメッセージ」なのではないか。



それが、歌舞伎、そのものではなかったのか。



そんな気がしてならないのです。





僕は、人間であり続けたいなぁ、

人間であり続けたいなぁと思います。


空を映し、人を映し、

時を忘れ、世に就きたい。


旅立つのはまだ早い。万感の想いとともに、

新たな覚悟のある春を、迎えたいと思います。

愛しあってるかい

先日、「風とロック」などで知られる箭内道彦さんが、
あるテレビ番組で、とても気になることを言っていた。
在りし日の忌野清志郎さんの言葉を出して、
僕らは今、みんながそれぞれに大切なもの、大切な人を
「愛して」はいるけれども、
「愛しあって」はいないんじゃないか?
そういう投げかけだったと思う。
強くてまっすぐな愛は、みんなたくさん持っている。
でも、愛しあえてはいないんじゃないか。
そこから前に進むために、
「愛しあってるかい?」という呼びかけが、
今、とても大切なのではないかという問いかけ。
そのことにボクは、とても共鳴してしまった。



ちょうどボクは、ある知り合いの先生から
投げかけられたコトバの意味をずっと考えていた。
こんなコトバです。

「最も大切なことは、最も大切なことを、最も大切にすることである」
(スティーブン・R・コヴィー)

これを最初に目にしたとき、
まったくその通りだよな~と思いながら、
なぜかちょっとさみしい思いがしていた。
そして、その時に、心の「点」のように感じた自分のさみしさが
何なのか、ずっと考えていた。

そしてわかったことがひとつ。
きっと、このコトバを聞いた時に、
ほとんどの人は、
「最も大切なことは、自分のなかにある」
そう考えるのではないか?
そんな「ひとり」「ひとり」の思いが、
まるで伝わってくるようだったから・・・

だからボクは、自分がさみしくならないように、
こんなコトバをつくってみた。

「最も大切なことは、最も大切なことを、
 いつも誰かのために空けておくことである」



誰かって、だれだろう?
それは、大好きな人かもしれないし、
不特定多数の人なのかもしれないし、
まだ出会ってもいない人かもしれない。
過去の自分かもしれないし、
これからの自分かもしれないし、
あなたかもしれない。
もしくは、その誰かは、いないのかもしれない。

従属のコトバだ、依存のコトバだと批判されるかもしれないが、
きっと、そういう次元ではないと思う。
でも、人によって、まったく色の変わる、
危ういコトバであることも事実かもしれない。

それでもボクは、このコトバを自分にプレゼントしたら、
なんだか勇気がわいてきた。
明日も、あさっても、生きられると思った。

このように、ボクは、元気です。

そして、変わり、変わりません。



いろいろな方からご心配いただいておりまして、
なかなかお会いできなかったり、お返事できなかったり、
行動できていないことが多々あるのですが、
おかげさまで仕事がとても忙しいということはあります。
ボクのコトバで
「元気じゃないっていうのは無理」
という、のら迷言があるのですが(笑)
そんな感じなので、なんとか大目に見ていただけたら幸いです。

すみませんが、どうぞよろしくおねがいします。

それじゃまた!


ごめんね、バスタオル。


あれっ?


いつもと違う。

ぜんぜん違う。

普段使っているバスタオルの感触が違うのだ。

三連休で地元の仲間たちと海水浴に行って
すっかり日焼けして荒れた肌には、
いつも柔らかくてふかふかに感じられる
バスタオルが、まるで反対のもののように感じられた。
繊維のひとつひとつが、まるで針のように
攻撃してくるように痛かったのだ。

もちろん、バスタオルが変わったわけではない。

変わったのは、自分なのだ。

それはまるで、心の持ち様、在り様を
象徴しているかのようだった。

空気が違うのは、風景が違うのは、
そして感じ方が違うのは、
自分の心の在り様が変わったからだということが
よくある。

ごめんね、バスタオル。

そして今、僕のカラダは元通りになり、
あんなに硬かったバスタオルが
ふかふかのものになっている。



ああ、いつでもスタートはきれるのだと思った。


変化は、すぐそこにある。

それを訪れさせるのは、自分だ。

自分が変われば、感じ方が変わるし、
新しい物語が、確かに始まる。



今日、彼の、いつものセンター前ヒットが、
まったく新しいセンター前ヒットのように、
僕には見えた。



明日が見えないことは、

きっと幸せなのだ。