ブログの意味ってなんでしょうか。
自分が読む側のとき、読みたいブログはやはり限られます。テーマが一貫していれば読みやすいし理解もしやすい。

テーマ設定はなく、日々をただ綴られたものの中にも、もちろん読みたくなるブログはあるけれど、それは人柄や文才や、さまざま魅力あってのもので、私には難しい。

だから私もテーマを作りたいと思うのですが、今はばらばらとまとまりがないので、それはもう少し先にします。


書く側として考えてみると、このブログの意味はただただアウトプット。その練習。吐き出す。
紙は辛抱強いWeb版。
もちろん紙と違い発信しているので、少しは読み手を意識して書くのですが。この、少し読み手を意識するというスタンスが、よいのかなとも思う。
自分しか読まない日記だと、かえって楽に書けなかったり、ひどくまとまりに欠けたり、マナーを忘れて、後々自分をみじめにさせたり傷つけたりするから。

もうひとつの大きな意味は、備忘録です。
紙とスペースの節約と、記録が一ヶ所にまとまっていることの安心感(まだまだ乏しい)。

そして、終活。
私が大事に思う人に、遺したい言葉を書いておくこと。

私は、書いたり読んだり物語を作ってみたりが、子どもの頃から楽しくてたまらなかった。
それは、ある友人のおかげです。

息を吸うように物語を作っていた時代、手紙を書くのが楽しくてたまらなかった時代。

今は、純粋な楽しみだけではないけれど、言葉は変わらず大好きです。
言葉を選ぶ、言葉を知る、言葉を通じ勉強する、考える。
その喜びを知っていることは、私にとって人生のギフトです。

実際には、言葉はなくても、身体感覚で、他の方法で、いろいろな喜びをあじわうことはいくらでもできると思う。

まさに今現在進行形である、言葉をまだよく知らない子どもに毎日付き合う経験。過去にヨガを数回体験したこと。
言葉人間の私にとっては、貴重な言葉以外の体験です。
でも、私はやはり言葉が必要。

言葉以外の体験で感じたことも、言葉で整理しようとしてしまう。
言葉(頭のなかで…言葉での思考といった方がいいのかな?)が止められず苦しいことも頻繁にあります。

言葉が好きでもあり、苦しみのもとでもあるけど、ただ切実に、必要なんだろう、と思います。
少なくとも今の自分にとっては。

言葉は私を助けてくれる。先人の言葉、自分の言葉、大事な人の言葉。遠い国で書かれた言葉。

私にとっては、映像は暴力的でした。多分一方通行で、かつ情報量が多すぎるのだと思う。
話し言葉も同じ理由で萎縮してしまうことが多くて、、、
一方で子どもの時から、書き言葉は、いつも紳士的でした。私を待ってくれた。本や手紙や図鑑を眺めたり写したりする時間が何物にも代えられない素晴らしい時間でした。

何人かの人のおかげで、話し言葉も自分の味方だと、今は思えるようになりました。もちろん、うまく付き合っていければ。
うまく付き合うという観点で言えば、言葉はただのツール。

それもひとつの捉え方ですが、ツールを越えて、ひとつの宇宙を孕む言葉も、たしかにあるようにも思う。


少し話が漠と大きくなりすぎました。

私の言葉が誰かの助けになればと、大それたことをしばしば思う。

言葉をライフワークに。
今も言葉の仕事をしていますが、いつか、もう少し自分が楽な形で、それを実現させたいと思っています。
楽な形を模索している途中です。