警告:とりあえず長文(・・;)
備忘録として。
***************************
1度目は情報ゼロの状態で一人で鑑賞。
終始圧倒されるも、映像美、音楽、キャストのハマり方など、作り手側に想いを馳せる気持ちが強く、まだ作品をそれ自体としてそのままは受け止めきれていなかった気がする。
ともかく声優陣は期待以上。
芦田愛菜ちゃん、吾郎さん、蒼井優ちゃん、そして海役の石橋陽彩くん、空役の浦上晟周くん。
一人一人の技量はもちろんのことなのだけれど。監督のこだわりと指導が隅々まで妥協なく行き渡っている、という印象を受けた。
小西賢一作画で久石譲音楽といえば、ジブリファンの私にはそれだけで。
鑑賞しながら、高畑勲監督「かぐや姫の物語」の最初の頃の天真爛漫なたけのこちゃんと、最後のシーンでのかすかな憂いを帯びたかぐやの表情がチラつく。
使徒。必然。宿命。
人間。偶然。逸脱。
あれ、それとも逆?
「どっちだっけ」
言葉たちがぐるぐる。
「まく子」
「君の名は。」
慎吾個展BoumBoumBoumの映像、、、
ぐるぐるしながら帰宅後、さらっとパンフを読む。(あくまでもさらっと)
**************************
昨日はチビたちを連れて二回目の鑑賞。少女たちの目線に寄り添いながら。
中学生、思春期真っ只中の不安定な瑠花。
変化が怖くて、自分が汚れていくのが嫌で、きっと、もがいてる。
「身体の中を作り変えられる」前の、天真爛漫な少年時代の象徴である海。自分が自分であることを疑わずに「今」を真っ直ぐに生きてる。
身体の変化を経験してしまった空は海のようにはもう笑えない。自分が消えゆく存在であることを、自分は真っ白なだけではないことを、世界に悪を働く可能性があることを、自らのこととして具体的に理解してしまったから。
と同時に空は、自分たちが「繋ぐ」使命を背負っていることにも気づいていて。
「ずっと、覚えていて」という、「星の王子さま」のメッセージが重なる。命は、身体を超えて、想いであり、記憶であり。
銀河を、隕石を、一瞬の輝きを。
「みつけて」
「忘れないで」
「繋いで」
それが生命の、遺伝子の、宇宙の、メッセージなのか。
瑠花は海を守りたいと思う。
無垢を汚したくないと願う。
無垢の尊さは自分が無垢ではなくなって初めて見えてくるもの。
無垢を対象化して、それを命をかけてでも守らねばと思えるようになったことは、瑠花の成長の証。
あの時瑠花は象徴的に母親となった。
赤ん坊の海を抱いて。
海に消えてほしくなくて、最初は必死で彼が隕石を飲み込むことを阻止していたのに、最後は自らそれを与えた瑠花。
もうどうあがいてもタイムリミットで、彼は「新たに生まれる」必要があるのだと、繋ぐ必要があるのだと、直感的に理解したのかもしれない。
海は自然の摂理につき動かされているように見えた。言葉を一言も発せず、飲み込んでどうなるのか理解しているのかもわからない。
それはある種、彼が自らの意思とは無関係に、「大人になる」ことの象徴にも思えた。
だからこそ、瑠花は水の中で生まれたのち、2人は炎の中で再び出会うのかもしれない。
宇宙の、遺伝子の、暴力的な導きによって。「滅び」へ向かう命の炎を、繋いで、燃やして、さらにその先へと「生き延びる」ため。あの追いかけっこの必死さは、導かれての飛翔は、人間の可能性にも、生命の悲劇にも見える。ただ、トーンとしては、希望の色が忘れられていない。若い2人のシーンだからだろうか。
下界へ落ち行く海を守っていたはずの瑠花は、最後は空のシルエットとなった「想い」に守られて地上へと落下していった。
あの時、誕生祭を「見たい」と、自らの意思で目を開けた瑠花。
それは、自分自身の心身の変化や母親について汚らわしく思い嫌悪感を抱いたり、対峙のしかたに戸惑ったりしていた思春期の彼女自身の物語を、ミクロコスモスとマクロコスモスの大きな物語の中で体感して理解し、大人へと飛翔していく覚悟だったのか。
汚らわしいと思えていたものは美しく神秘的で。見たことで失われた無垢の代わりに、彼女は無垢のかけがえのなさに気づき、それを守りたいという想いを手に入れる。
デデの「私もあんたの年の頃、、、」が、瑠花を「そちら側」に引き寄せる。
彼女は何も失ってはいない。
河瀬直美監督「2つ目の窓」の界人と杏子の物語がどことなく重なる。
さいご、黒と白を繰り返す場面と、エンディングの米津玄師の歌のあとに赤ちゃんが生まれているのは、あれは「そういうこと」だろうな。宇宙の果てからの遠い遠い旅路の末に、真っ暗と真っ白を繰り返した末に、用意されていた場所にたどり着いた命。
へその緒を切ることで、その存在はマクロコスモスからパチンと「切り離される」。
大きな物語から、小さな物語へ。
少し別の視点から。
作品の世界観は「新世紀エヴァンゲリオン」や「星の王子さま」「僕の地球を守って」などを連想させる。
ただ違うのは、この作品の世界観が、旧約、新約聖書の人間中心主義的なそれを超えていること。
海も空も、決して「イエスキリスト」ではない。彼らは使徒というより、パンフレットにもあった言葉だけど、触媒。
つまり彼らは「人間の罪を背負って消える」わけではない。
その意味では、描き方は違えど、この作品は非常に深くジブリ的。
神がいるようでいないという意味では仏教的でもあるし、自然や動物の方が宇宙の神秘と直接的直感的に繋がっているという意味では「もののけ姫」のような汎神論的世界観(と人間中心主義との対立)でもある。
つまり逆に、神はいたるところにいる。
「風の谷のナウシカ」の虫や胞子、そして水のモチーフ。
「千と千尋の物語」の水と記憶のモチーフ。
「崖の上のポニョ」の海の世界と陸の世界の共存のモチーフ。
さいごの海くんの「クィクィ」なんて、「魔女の宅急便」のジジみたいでもあり。
そしてもうひとつ。
「グラン・ブルー」の世界観。
子供の頃観た衝撃が忘れられない作品。
イルカとともに海に消えたジャックは、さいごとても幸せそうで。それがなにより衝撃的で。ジャックの子供を宿していたジョアンナは彼を陸上に留めておけなかったことで泣き崩れていたけれど。
人間でいることがしんどかったジャックは、解き放たれた表情で、恍惚の中、キラキラと、海の粒子となって溶けていった。
「グラン・ブルー」とは違う結論になるけれど、瑠花の両親にも同じモチーフを感じた。
漫画原作を読んでいないので、映画を観ただけでの感想だけれど。
映画の中では瑠花の両親に何があったのかは語られないのだけれど。お互い「言葉」があるばっかりに、次第に向き合うことが出来なくなっていったのだろう。妻は相手に伝わらないことがしんどくて。夫は想いを受け止められずに逃げて。
妻の寂しさや怒りは、汚れた、つまり深く人間的な、もしかしたら「女性的」な、自分自身を、夫に拒否されたことだろうか。
夫は純粋無垢な「裏切らない」海の動物たちといた方が心が乱れないのだろう。
自分自身が人間であることに向き合うのがしんどくて、お酒に、動物に、逃げたのかもしれない。
けれども自然は「裏切らない」わけではなく。
嵐も来るし、天変地異もおこる。
そもそも裏切るも裏切らないもなく。
それこそが人間中心主義的な発想で。
自然は人間のことなど考えない。
自然も、動物たちも、直観的に受け止め伝えるだけ。
それは摂理であり、本来は人間もそんな自然の一部だったはずなのだ。
けれど、人間にはもはや直観的に自然の一部になりつづけることが難しい。
ただ、人間は自然のことを対象化して「考える」ことができる。
それは、人間が言葉を得たからでもあり、汚(ケガ)れてしまったからでもあり。
無垢でない人間だけが、無垢を守ろうとすることが出来るというパラドックス。
三女は、水族館で瑠花が首から下げていた「guest」の札が暗示的だったのではと思ったらしい。
少女は呼び寄せられ、招き入れられ、生命誕生の神秘について、ミクロコスモスとマクロコスモスの繋がりについて、鯨たちの、海と空の、星々の記憶を通して、恐らく瞬時に体感「させられる」。
(瞬時にというのは、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の、頭骨の夢の記憶のイメージ。瞬間的なのだけど永遠にまでその瞬間が引き延ばされるような感覚、、、)。
そして、全てが日常に戻っていく。
私たちはひとりひとり、そんな世界を生きている。のかも、しれない。
原作読んでみよう。
読んだらこの感想が恥ずかしくなるかな。
またもう一度くらいは映画も観よう。
おわり。